『高畠素之の亡霊 ある国家社会主義者の危険な思想』(佐藤優)を読む

 

高畠素之の亡霊: ある国家社会主義者の危険な思想 (新潮選書)

高畠素之の亡霊: ある国家社会主義者の危険な思想 (新潮選書)

 

優雅で感傷的な日本のアナーキストが好きなおれにとって、高畠素之というのは「その周辺人物」の一人であった。なにせ、国家社会主義者なのである。が、マルクスの『資本論』を初めて日本語訳したのは高畠だし、三回も全訳しているのが高畠なのである。興味深い人物とはいえないか。

 高畠は、悪を単なる善の欠如とは考えなかった。本質的に性悪な人間が形成した構造悪があると考えた。そして、『資本論』が資本主義社会における構造悪を解明していると直観した。そして、『資本論』の全訳に挑み、それを成し遂げた。高畠は『資本論』の論理は承認したが、唯物史観にもとづく革命後の理想社会の到来を信じることができなかった。本性において性悪な人間が、良き社会をつくることはできないと考えた。

第二十一章 「変装」

これである。著者の佐藤優によれば、高畠は『資本論』の本質を掴んだ。その構造を、考え方を理解した。弁証法を、方法論は承認した。しかし、それが描いてみせた理想社会は信用しなかった。ソ連という国家のありようを認めなかった。日本のマルクス主義者が内心でなんらかの抵抗をいだきつつも称賛したソ連を否定した。そして、国家社会主義者を自称した。自称ではない、そうなった。

 マルクスに限らず、世界の思想史上に新らしい時代を劃するほどの大思想家は、皆この点に共通の特色と魅力を有つてゐる。プラトンにしても、カントにしても、時間を超越した彼等の真の偉大さは、彼等の学的構造そのものにあるのではなく、問題把握上の彼等の天才的機智に横はつてゐるのだといひ得る。

高畠素之「マルクスの不滅性」

では、優雅で感傷的な日本の無政府主義についてはどう考えていたのか。

 無政府主義の言ふことは、私にもよくわかる。それに共鳴したがる傾向も、私は多分に持つてゐる。ネヂのかけ具合で私などは立派に無政府主義の信者になり得る素質だ。が、現在のネヂ加減では、無政府主義の正反対を走つてゐる。

 無政府主義は、現実に対しては極度の悲観、理想に対しては極度の楽観であるが、私は理想も現実もみな悲観である。ただ、その悲観のうちにのみ、せせこましい安心立命らしいものを握つてゐるといふに過ぎぬ。

高畠素之「無政府主義論」

 「無政府主義は、現実に対しては極度の悲観、理想に対しては極度の楽観である」とはよく言ったものだ。なるほどな。

そんな高畠素之が『資本論』で用いた訳語について。

 商品の形態のもとに、物と物との関係の幻想的形態を採つて人類の目に映ずるものは、人類自身の一定の社会的関係に外ならない。そこで是れに類似した現象を見出す為には、宗教の夢幻境に助を求めなければならなくなる。此境地に於いては、人類の頭脳の諸産物は、相互に関係し且つ人類とも関係してゐる所の、それ自身の生命を附与された独立した存在物であるやうに見える。商品界に於ける人類の手で造られた諸産物についても同様である。私は之を、労働生産物が商品として造られるや否やそれに固着し、随つて又商品生産から不可分的のものとなつてゐる所の魔術性と名づける。

 商品界の魔術的性質は、前述の分析に依つても知られる通り、商品を生産する労働独特の社会的性質に基づくものである。

カール・マルクス資本論』[高畠素之訳]

この「魔術的性質」という訳だ。佐藤優はこう述べる。

Fetischcharakterという日本の読書界にはほとんど知られていない述語に直面して、高畠は「魔術的性質」と訳したのであるが、「物神崇拝的性格」よりもよい訳語と思う。

 

魔術という訳語からは、強い異常さを感じる。人間が作り出したものに魔法にかけられたように人間が呪縛されているという雰囲気が現れるからだ。人間には、貨幣という形態で、互いに魔術をかけ合う能力があるのである。

……といったところで、おれはいかなる日本語訳による『資本論』を読んでいないのでわからない。わからないが、この一節についてはなんとなく頭にとどめよう。

で、国家社会主義というあたりについて。

 高畠が、一九二八年に死去したため、マルクス主義社会主義国家主義をつなぐ運動の流れは一九三〇年代の日本において、大きな影響を与えなかった。北一輝大川周明にしても『資本論』に本格的に取り組むことをしなかった。しかし、日本の超国家主義運動、反資本主義、反共産主義、反ファシズムの「三反主義」という自己認識を確立する過程で、『資本論』を咀嚼して、右翼、国家主義陣営に「ほんものの右翼、国家主義者は、資本主義打倒を掲げなくてはならない」ということを啓蒙した高畠の役割は大きいと筆者は見ている。

ほう、日本の「ウルトラ」は「三反」だったのか。

でもって、高畠の本質には性悪説ニヒリズムがあると筆者は指摘している(と思う)。

 晦ますといふと、作意一方になつてしまふが、どんな理論にしろ、性根の何処かに何程かのニヒリズムがないと本当に終りまで聴かせる魅力がつかない。社会主義にしろ、無政府主義にしろ、愛国主義にしろ、何主義でも善いが、性根の一角にニヒリズムを潜めない人間の議論ぐらゐ、その人間それ自身の如く噛んで索然たるものはない。

高畠素之「ニヒリズム」 

このあたりが、面白いと思うのだが。

……だが、実のところ、おれは体調を崩しており、この本をしっかりと読んでいない。いずれ再読するつもりだ。どのあたりで、『資本論』の弁証法というやつで、国家社会主義に接続していったのか(高畠は「転向」をしていない)、そのあたりを読んでみたい。またの宿題である。とりあえず、以上。