『未来のプルードン 資本主義もマルクス主義も超えて』(的場昭弘)を読む

 

プルードンクロポトキンバクーニンあたりとなると、おれにとってのアナーキズムとの出会いであって、なにかの根底のようなところがある。とはいえ、おれは優雅で感傷的な日本アナーキストたちが好きであって、どうにもそちらはおろそかになっているところがある。

 

ということで、この本を手にとってみた。装丁もなにやらパンキッシュやし、栗原康みたいなのか? と、思ったら、そうではなかった。マルクス学者である著者が、マルクスのライバルとしてのプルードンを書いたものであった。いや、プルードン側に立って書いたものである。

 

というわけで、いくらかメモしておく。

 

まず、マルクスプルードンを仲間に引きれようとしたときの、プルードンの返答。

 

 しかし、それに対するプルードンの返信では、マルクスたちのグループの独善主義と党派主義が批判されている。自説をつねに正しいとして徒党を組み、それに属さない者は敵だとみなし批判するそうした態度に対して、プルードンはこう述べる。

 「しかし、神に誓ってもいいのですが、あらかじめ(a priori)あらゆるドグマを破壊した後で、それに代わって、人民にドグマを与えるようなことは考えないでください。あなたの祖国の人である、マルティン・ルターの矛盾にはまらないでください。ルターは、カトリック神学を転覆した後で、すぐに波紋と追放の強化を行い、プロテスタント神学を創設しました。それから三世紀、ドイツが行ったことは、ルターのこの漆喰の壁を壊すことだけでした。新しいモルタルによって、新しい労苦をつくるべきではありません。いろんな意見を白日のもとに晒すという、あなたのご意見には喜んで賛成します。良き、誠実な議論を行いましょう。知的で、周到な寛容さを、世間に例示しましょう。しかし、われわれは運動の先頭にいるがゆえに、新しい不寛容の主人、新しい宗教の使者になってはいけないのです。この新しい宗教とは、論理の宗教、理性の宗教です。あらゆる批判を受け入れ、それを勇気づけましょう。あらゆる排除、神秘をやめさせましょう」

 一定のドグマを押しつけ、徒党をつくることが大嫌いなプルードンは、マルクスたちの動きに釘を差し、批判を受け入れる開かれた組織なら入っていいと述べる。

 

のちの世界の共産主義、あるいは広く左派の源にマルクスがいるとして、ひょっとしたらこの独善主義、党派主義という部分だったりしないだろうか。それが論理や理性の信奉と深く関係しているかどうかはわからない。

 

プルードンフランス革命についての考察。

 国家は、政治を公的権力として維持する一方で、経済とりわけ私的経済を私的領域として自由にした、その結果、どれほど儲けようと国家の規制を受けることはなくなった。自由になったのである。その自由は、平等と矛盾するのだが、結果平等を機会の平等に置き換えることで、平等も自由の中に含まれると主張する。それがフランス革命である。こうした自由の前提条件にあるものこそ私的所有であり、その私的所有を公的権力が保障することで、私的所有は国家の権威の裏付けを得ることになる。

 プルードンはだからこう考えるのだ。公的裏付けのない、私的領域として開放される所有はないか。それが共同所有、アソシアシオンである。私的でなく、公的所有でもない所有。共同参加による所有。そこには国家権力によって認められたものではなく、積極的にそこに参加した人民が認める所有がある。その意味でこの所有は、国有でも、私的所有でもなく、社会的所有となるのである。

 マルクスは、プルードンのあまりにも衝撃的な分析に、目からうろこが落ちるほどの衝撃を感じたはずだ。

 

著者は、この国家権力の裏付けのない所有、富、マネーを、現代ではブロックチェーンとかビットコインとかが実現するのかもみたいなこと言ってるが、そのあたりはよくわからない。

 

ところで、フランス革命といえば「自由、平等、博愛」だが、その人権宣言では五つの項目が述べられており「自由、平等、博愛、所有、安全」なのだという。プルードンはそのなかでも所有に着目したのだと。ふーん。

 

科学的、という言葉。

 科学的(学問的)という言葉の使用も、プルードンがある意味マルクスより先んじていたのだが、その意味は二人で大きく異なる。プルードンは、権威やドグマによらない自由な議論を科学的というのだが、マルクスは一つの絶対的真理という意味で使うことになる。プルードンは、そうした絶対的真理はないと考え、つねに社会には批判と進歩があるとする。

 

こんなんなると、まるでプルードン保守主義者のように見えてくる。とはいえ、バクーニンの教育論とかもやっぱり自由な議論に近いようなところもあり、ここにマルクス主義の硬直があるように思えてしまうのは仕方ないことだろうか。

 

未来の労働。これは著者が現代から未来を予想した見解。「未来の」プルードン。AIやらなんやらによって、人々は知的単純作業から解放される。より創造的仕事に従事することになる。それは上意下達型の労働とは異なるものになるだろう……。

 

 とはいえ、そうした創造的労働にたずさわれない労働者はどうなるのであろうか。利益を生まないボランティア的労働にたずさわるのか、失業し国家から生活保護を受けるのか、それとも十九世紀の人々が考えたように、人間はみな平等で、勉強すればそうした知的な仕事に就けるようになるのか。いずれにせよ、資本主義社会では解決できない問題が、ここに出現している。いずれも資本の利潤追求運動から外れてしまうのである。

 

このあたりだ。人間が単純労働から解放され、より創造的な仕事に専念できるとなったとき、創造的でない人間はどうなるのか。だれもが勉強すれば高度にAIを扱えるようになるわけでもあるまい。創作や芸術で価値を生み出せるわけでもあるまい。著者はこれを「問題が、出現している」と述べるにとどまるが、述べているだけでも十分だ。プルードンとはちょっと関係ないかもしれないけれど、気になる話なので。

 

……というわけで、あまり本題、本のタイトルについては触れられなかった。でも、まあ、なんかわからんが資本主義社会も行き詰まるかもしれないし、そのときあらためてマルクスが見直されることもあるかもしれないし、プルードンのアソシアシオンが見直されるかもしれないし、というところ。個人的に資本主義が行き詰まるのかどうかは、ようわからん。たしかに、地球資源の限り、地球環境の持続などを考えたらなんかこのまま同じようにずっとというわけにもいかんかもしれん。でも、それがいつかわからないし、人類の技術が先にその問題を解決してしまうかもしれん。未来のことはわからない。ただまあ、そんなときが来たとしても、おれが生きているような近未来ではないよな、というのが正直なところではある。

 

以上。