所有という観念の発生
ある広さの土地に囲いを作って、これはわたしのものだと宣言することを思いつき、それを信じてしまうほど素朴な人々をみいだした最初の人こそ、市民社会を創設した人なのである。
おれはこの一節、どこかべつのほんで引用されていたこの箇所を確かめたいがためにこの本を読んだ。この一節はこう続く。
そのときに、杭を引き抜き、溝を埋め、同胞たちに「この詐欺師の言うことに耳を貸すな。果実はみんなのものだし、土地は誰のものでもないそれを忘れたら、お前たちの身の破滅だ」と叫ぶ人がいたとしたら、人類はどれほど多くの犯罪、戦争、殺戮を免れることができただろう。どれほど多くの惨事と災厄を免れることができただろう。
そのとき、「叫ぶ人」はいなかった。人類は悲惨になった。
しかし一人の人間が他人の援助を必要とするようになった瞬間から、また一人で二人分の食料を確保しておくのは有益であることに気づいた瞬間から、平等は姿を消し、私有財産が導入され、労働が必要になった。そして広大な森はのどかな原野へと姿を変えたが、この原野を人々が汗して潤すことが必要になった。そしてそこにはやがて隷属と窮乏が芽生え、作物とともに成長していくようになる。
おれはときどき、「森でどんぐりを拾う仕事」の話をする。なんとなく、そういう原初があったような気がするからだ。それでも、おれはそのどんぐりを、黒パンと塩のスープと交換する、という言い回しをする。それが人間のありようだという観念があるからだ。どんぐりはそのまま食べればよかったのだ。
ルソーは当時の西洋人として「野蛮人」、「未開人」のありようを見つつ、その差異からこのような人間の進歩の原初について考える。それはあまりに一方的な見方、偏見だろうが、その「西洋文明」が現代の社会の基盤になったのだから、その考えは無視できないもののように思える。
野生人と文明人の違いを作りだしている根本的な原因は、まさにここにある。野生人はみずからのうちで生きている。社会で生きる人間は、つねにみずからの外で生きており、他人の評価によってしか生きることができない。自分が生きているという感情を味わうことができるのは、いわば他人の判断のうちだけなのである。
そしてルソーは鋭いな、と思う。そういう記述がたびたびある。さすがの古典だ。おれは西洋哲学も西洋古典もほとんど関わらずに生きてきたが(ブランキやプルードンやバクーニンやクロポトキンが古典かどうかしらないが)、さすがだな、と思った。さすがホッカイルソーの名前のもとになっただけがある、と思った。
ともかく、ルソーは神の想像した世界という発想をうまくよけて、当時の「未開人」から不平等の起源をさぐった。そういうことらしい。とはいえ、「自然に帰れ!」とも言わない。では、どのような社会に人が生きるべきなのか『社会契約論』で述べられているらしい。むずかしそうだ。でも、時間があったら手にとってみようか。でも、いまちょっと心身の具合がおかしくなっているので(文明人の病だろうか?)、本当はこの本ももっと読み、書くべきだったのだろう。とりあえず、ここにこうしてこれだけメモしておく。