前提として述べておくと、おれは双極性障害(躁うつ病)を患っており、障害者手帳も持っている。したがって、我が事とはいえ大きな気分の変調というものに思考も上下左右されている可能性は十分にある。
と、前提を述べた上で書くが、なぜか、この今、今になって、ようやく? 「コロナ疲れ」が出てきたような気がしてならない。第4波だ、まん延防止だというこの時期になってだ。
疲れが、たまりすぎている。思い返せば今年の二月、三月は毎度年度末の大騒動で、てんやわんやの中で働いた。そして、四月になってぱったりと仕事が止んだ。止んでみたら病んでいた。双極性障害の鉛様麻痺がひどく、一週間に渡って午後からの出社となった。休めないのは、零細企業で絶対的に人がおらず、リモートワークしている人もおり、おれがいなければその日の入稿ができないから、夕方の最後の最後だけでも出なくてはならないのだ。
それは、ちょっと一段落した。とはいえ、その後もひどい疲れが残っている。年度末の疲れを引きずるにしてはもう十分間隔が空いているし、なにかこれは双極性障害の抑うつ状態とは違う、という精神状態にある。
精神状態の精神というものをどこに位置づけるかわからないが、なんというか病んでいる「脳」そのものというより、そこから生じる「心」に属するもののように感じる。そして、それを言葉にして表してみたら、この日常が「もうたくさんだ」ということだ。
おれはもとより家と会社を寄り道もせず自転車で往復し、土日は家で競馬をするか寄り道もせず図書館に行って帰るような生活をしていた。……と、思っていたのだが、コロナが流行する前は、毎週のように女とどっかに遊びにいくのが普通だったんじゃないのか。普通でないにせよ、その選択肢があった。その選択肢がなくなった。一人でちょっとどっか行って写真を撮ることもなくなった。もとよりそんなに出歩いてなかったかもしれないが、選択肢から消えた。
これがものすごいストレスとして認識されるようになった。「今さら?」という気がしないでもないが、ともかくそうなのだ。年度末の繁忙から解放されて、ふと暇になったとき、「ちょっと江ノ島でも行くか」という選択肢がない。
話は逸れるけど、東京の人とか、「ちょっとどっか観光地に行くか」となると、江ノ島、鎌倉に来るよな。海があるからかな。海、見たいよな。でも、大磯や小田原、熱海じゃちょっと遠い。まあ、テレビや新聞が「画」を撮りやすいからそう報道されているだけで、横須賀とかも混んでいるのかもしれない。横須賀にも行きたい。
まあいい、ともかく、「ちょっと江ノ島にも行けない」というのが、非常なストレスなのだ。心が折れそうと言ってもいい。果てしない疲労を感じる。
そして、不安に襲われる。こんな世の中では不景気が進むだろうし、まず貧しい人間から地獄に落ちる。おれは社会の下の方で這いつくばって生きているので、路上生活はすぐそこだ。道一本渡って寿町に行ってもいいが、ドヤの金を払えるのだって限りがある。
漠然とした不安と、具体的な貧困の恐怖。この二つも混ざり合って、「あれもできない、あそこにも行けない」というストレスをコーティングしている。そして、この「心」の負担が「脳」へフィードバックされ、ひどい抑うつ傾向にまた陥りつつある。
よく、ここまでもったとも言えるが、まだまだ、おれよりももっと緊縮して生きている人もいる。少なくともおれは映画に行ったりはした。四回も行った(『鬼滅』、『KCIA』、『シン・エヴァ』、『シン・エヴァ』)。医療従事者などは緊縮の上に壮絶な労働に直面している。おれなどが愚痴を言うのも憚られるところだ。
それでもまあ、一個の人間がこうして、そろそろ限界を迎えそうだということを書き残してもいいだろう。本当に、もうちょっと無理だ。疲れた、息苦しい。深夜、一人でアニメを見ながら多量飲酒をしたところで、このストレスは晴れない。
いっとき、心身のためにちょっとジョギングを再開させてみたが、鬱の波がすべてをさらっていってしまった。波がくると、あらゆるやる気というものをさらっていってしまう。その繰り返しだ。三途の川で石を積んでいるようなものだ。
いつ死ぬのかという恐怖ではなく、いつまでこれが続くのかわからないという恐怖。気晴らしの方法もない。なにもしたくない。おれはもう疲れた。
おれはもう疲れた。コロナにも、人生にも、もう本当にうんざりしている。