※以下は双極性障害II型と診断されて、投薬を受けているだけの素人病人の意見、見解その他に過ぎませんのでご注意ください。あと、取り上げている書物では「躁鬱病」と表記されていますが、おれは「双極性障害」と書いてます。それも好き好きなので、気にせんでください。
ちょっと前にこんな記事を読んだ。
この記事で、おれは坂口恭平という人物が双極性障害II型であるということを知った。インタビュアーも双極性障害II型なので、タイトルの「うつ」にかぎ括弧がついているのは、「大うつ病性障害のことではないよ」という意味かもしれない。それはわからない。
そして、この記事のブックマークについた意見に見られたのが、「一般化できる話ではない」、「単純化はよくない」というものであった。
おれにはその意見がよくわかる。よくわかる一方で、個々に現れた症状というのはどこまでいっても一般化できないのではないか、という相反する思いも抱いた。エビデンスのある、最大公約数において精神疾患、あるいはその他の疾患について語るのは、医学書や論文、医者が書くものということになるだろう。
当事者が語ると、それはどうしても個々人によって違ってきてしまう。同じ病名がついたところで、そこまで画一的な症状が出ない。とりわけ、精神疾患はそうなのではないか。そんなふうに思った。もちろん、「これはこの当人の意見であり、すべての同病者に当てはまるわけではありません」という注釈は必要だし、それが足りないというならその批判はあってしかるべし、だけれども。
しかしなんだ、いずれは個々人に対してその個人にのみ効くような薬が調合されていくのではないだろうか。双極性障害だのなんだのという公約数的病気、公約数的薬剤の処方ではなく。人間の脳なら脳の機序というものがあきらかになって、個々人のそれが計測できるようになり、それに対してバッチリ効くような薬だ。たとえば今おれはジプレキサという薬に頼って生きているが、いずれは「黄金頭さん薬」になる。もっとも、その実現にはあと一世紀とかかかるのかもしれないが。
……あー、未来の話はともかく、だ。そうだ、おれは双極性障害II型の人間として、もうおれが読める範囲(論文とか難しくて読めるわけねえだろ)の一般向け(当事者向け)「双極性障害の本」は読んでしまったように思う。たとえば、加藤忠史博士の本などだ。そうなると、今度は当事者の話が知りたくなる。「そっちはどうだい、うまくやってるかい?」という具合だ。なにせ、鬱病(大うつ性障害)や、新型うつ病的ななにかについての話は多い。最近では発達障害の話が増えている。一方で、あまり見かけないのが双極性障害、躁うつ病の話なのである。
というわけで、上の記事で紹介されていた『坂口恭平躁鬱日記』を読んだ。正直言って、あまり坂口恭平さんの仕事には興味がない。上記記事の「料理で……」というのも、「そういう人もいるかもね」というくらいだ。でも、やっぱり医者に双極性障害と診断されている人の話は気になるのだ。「そっちはどうだい?」だ。
で、「そっちはどうだい」となると、かなりうまくやってるなあという具合である。
普通、躁鬱病というものは苦しい病であるとされているので、どうにかその躁鬱の波を消そうと試みられるのである。だから大量の薬を投入し、上がりもせず下がりもせず、いやどちらかというと、少しだけ下がっているような気分で落ち着かせるような治療が行われているらしい。躁鬱にとって、少しだけ下がっているような気分はとてもきついのではないのかと僕は思う。しかし、それでも、躁になって暴れてしまい、枠を飛び出た行動をするよりかましということなのだそうだ。
「だって、あなたの場合、躁鬱の波を利用して仕事をしてお金を稼いでいるからね……」
それでも僕は、もうこんな大波に乗った状態で生きていくのはつらい。だから真ん中に持っていってくれと懇願する。しかし先生は笑いながら言う。
「あなた、この躁鬱でごはん食べていってるんだから駄目よ、真ん中にしちゃ」
僕の創造性を潰そうとしないというか、逆にもっとやれというのだ。おかげで僕はあんまり薬も飲まずに、そして躁鬱も押さえ込まずに、できるだけ自然な状態で、己の野生の精神が赴くままに、脳味噌を発動させて生きている。
この本の時点での話ではあり、上のインタビューにあるように、今は違うかもしれない。しかしながら、ともかく、この人の場合は鬱が明けて躁になると、俄然エネルギーに満ち溢れるらしい。そして、その才能を文筆その他多彩な方面に活かして、社会的に大成功をおさめているといっていい。本は売れるし、展覧会もするし、頼れる人脈に事欠かないし、妻と二人の子供までいるのである。
……というわけで、はっきり言って、本書のほとんどの、躁側で生き生きとして書かれたと思しき部分は、眩しすぎて読めなかったと言っていい。「こっちはこうさ、どうにもならんよ」の人生を歩んでいる負け組の双極性障害者にはきついのである。
そうだ、根本的な脳味噌の作りが優秀で、創造性のある人間にとって、躁鬱の躁状態はボーナスタイムなのかもしれない。いや、いかん、主語が大きく、曖昧だったか。この坂口恭平という人にとってはそうなのだろう。
では、「こっち」の軽躁状態がどういうものかというと、やけに歯を食いしばり、脳が空回りして、手足に落ち着きがなくなり、創造的な発想も仕事もできないし(そもそもできないのだけれど)、目の前の単純な仕事もできない。要は、ひどい抑うつ状態では身体が動かなくて何もできないのに対し、躁では身体が動きすぎて何もできなくなるのである。
と、そこで、先程の引用部分にもあるように、「少しだけ下がっている」状態の維持というのが目的になる。幸いにして、おれはジプレキサ(実際に飲んでいるのはジェネリックなので、オランザピンと書いたほうがいいのか)が効果てきめんで、この薬を飲み続けているかぎりは、今のところ大丈夫という気持ちが強い。思い込みでないのは、去年の九月、おれの「もっといい薬はねえか~」に対して、医者が試しにセロクエルを出したときの症状で明らかになった。
双極性障害者、最悪の一ヶ月。そして、ジプレキサ、再び。 - 関内関外日記
これが、躁鬱の波に飲まれてしまうおれの症状だ。おれのおれ病はオランザピンによって寛解する(投薬に安定を寛解といっていいのかどうか正確なところはしらない)。これにどのような病名がつくかは、はっきり言って知った話ではない……わけでもないから、同じ病名の人の話を読みたいのである。読んだところでどうにかなるわけでもない。その才によって金に換えてしまえるような人もいれば、おれよりどうにもならんような人もいるだろう。
『双極II型障害という病 改訂版うつ病新時代』についてのメモ2 - 関内関外日記
神田橋條治は双極性障害に対して「気分屋的に生きれば、気分は安定する」という標語をあみ出した。達人の真似はしない方がよいかもしれぬが、心にとめおきたい言葉である。
気分屋的に生きることが許される能力、才能がある、あるいはそれでいい職業のジャンルに就いているなら、それでいいだろう。当たり前だが、そうはいかない、おれのような人間もいる。おれのような人間は「少しだけ下がっている」方で安定させるしかない。とはいえ、もとより低い能力しかない人間が、さらに「少しだけ下がっている」のだ。いや、ほんとうにどうにもならんな……。
で、話を本書に戻す。本書は日記形式で書かれていて、ときおり「鬱記」が差し挟まれている。かなりの……抑うつ状態だ。人生に対する暗さが、おれと変わらない。そこだけ読むと、かなり重症としか言いようがない。
が、当人は躁状態になると、その時期のことを全く忘れてしまうらしい。自分の言動を。そういう人もいるのだな、というか、最初にリンクしたインタビューで「坂口さんは双極性I型でしょう?」とインタビュアーが勘違いしていのもうなずける(I型はII型に比べて波の振れ幅がすごく大きい。躁状態でいきなり全財産使っちゃうとかそういうレベル)。
そこで、妻の人のアドバイスもあって、躁状態の自分から鬱状態の自分への手紙というのを書くのだけれど、これがもう眩しくて読んでられないようなもので、とはいえそれが社会的、人生的に見て成功している人間としては大げさでないところが眩しすぎるのであって。でもって、鬱状態でそれを読んだ感想は「意味不明の文面」、「鬱の僕を一片も慰めてはくれなかった」という。
……無理やり鼓舞するどころか、彼は天高く飛翔してしまっており、その姿すら見えない。鬱の僕が読むと、アカの他人が書いた手紙にしか思えなかった。しかも鬱の状況をまったく理解していない人間による仕業だ。躁と鬱おのおので使われる言語は、英語と日本語くらい構造が違っており、完全にコミュニケーションが断絶されている。会話が噛み合わないのではなく、まったく別の言語なのである。
何度も言うが、これはこの人の例である。この人にはこの人のサイクル(ラピッドサイクラーと自称、いや診断されているようだが)があり、この人の断絶がある。おれはおれで緩慢に下がっていて、その連続の中に浮上の目はない。睡眠導入剤を使って寝るのは一緒だが(坂口さんはサイレース、おれはアモバンなので坂口さんのほうが相当に強い薬を使っている)、ずいぶんと違うものである。
違うものである、というのは、過去形だろうか。最初にリンクしたインタビューにはこう記されている。
今年2月末のインタビューを記事をまとめていた4月半ば、「無事に精神科への通院を終了して、薬を飲む必要もなくなった」と、坂口さんから連絡を受けた。
え、双極性障害というのは、投薬なしに寛解するものだっけ? と思った。が、自力で波乗りして、それで生きていけるのであれば、医者が「薬なくてもいけるな」と診断するケースもあるのかもしれない。おれは、精神疾患、あるいは病気というものは、個人個人がそれぞれ違うように違うと思っているので、そういうケースがあってもおかしくはないと思う。どうもいまのところ、おれはそうではないみたいだ。それだけの話だ。
というわけで、ここで坂口恭平病とおれ病の二例の一部を紹介した。こっちはこうだ、それで、そっちはどうだい? ということになる。「三例目のおれがいるぜ」という双極性障害の人がいれば、「こっちはこうさ」と書いてほしい。それをおれが読むかどうかはわからないけれど、同じ診断名の人間が「そっちはどうなんだろう?」と思ったときに、きっと価値のあるものになるのだぜ。
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どうにもならんよ。
躁うつ病はここまでわかった 第2版: 患者・家族のための双極性障害ガイド
- 作者: 加藤忠史,不安抑うつ臨床研究会
- 出版社/メーカー: 日本評論社
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……このあたりの本は読んだと思います(検索したら過去記事が出てくると思う)。