怪しいものに対峙するための、しなやかな知性について

またまた寄稿いたしました。

blog.tinect.jp

 

読んだ?

読んだかな?

読んだよね?

読んだって信じてるから。

読まなくたって、読んだってことにするから!

 

というわけで、「しなやかな知性」についての話でした。

カルト、オカルト、儲け話、あやしい話、そういうものへどう立ち向かうべきかです。おれは、カチコチの知性ではやばいと思うのです。鋼鉄の知性。もちろん、それを装備できるレベルの人ならそれでいい。それに越したことはない、と思うのです。

正直いうと、おれが思い浮かべていたのは江川紹子さんのこの記事でした。

news.yahoo.co.jp

 根拠なき陰謀論については、面倒でも「これは間違い」「これは根拠が示されていない」と一つひとつ、こまめに、忍耐強く否定していく情報発信を続けていくことが大切だと思う。そうすることによって、カルト的思考・発散の拡散に抗いたい。

 今回の暴動には、トランプ支持を続けてきた陰謀論者「Qアノン」の信奉者やネオナチ、白人至上主義者として知られる人達が関わっていた。検察当局は、すでに関係者55人を訴追請求したと報じられている。捜査が進めば、その実態は明らかになるだろう。報道機関には、なるべく詳細に事実を報じてもらいたい。

 また、今は誰もが発信することができる時代だ。気軽に陰謀論を拡散している人には、それがウイルスをばらまくのに等しい行為だという自覚を持ってほしい。

 カルト的思考・発想が流布するのを甘く見てはいけない。

この「甘く見てはいけない」というのは、本当に重い言葉だと思うのです。なにせ、江川紹子さんが言っているのだから。それだけで説得力が生じる人だと思います。

でも、です。世の中の人間、おれも含めて、そう大したことのない人間はそれだけ強い意思と知性を持ちうるか、という疑問がある。下手にカチカチに知性を固めても、幻覚剤やトリックにやられたら、ガラスのように簡単にパリーンと割れちゃうんじゃないの? そんな気持ちがあった。

だからおれは、ゴムのようにしなやかな知性、理性、悟性、なんでもいいけれど、なにかしら柔らかい考え方を持つ方がいいんじゃないかと思うた。知的にも倫理にも軟弱な愚者は、固めるのではなく、のんべんだらりとする方が簡単なのではないか。危なくないのではないか。どっちにも転ばないでヌルヌル生きる。それでどうだ。

とはいえ、これも難しい。おれが言う「しなやかな知性」というものも、なかなかに得難いもののようにも思えるからだ。言い出したおれが言ってるのから間違いない。おれがそれを得ているとも言い切り難い。

かといって、おれはおれを信じるより、おれはおれを疑う方が簡単だ、という自覚はある。おれのようなものは信じるに値しないので、おれのようなものが信じるものは信じられない、という態度だ。

他人に生殺与奪の権を与えてはならない一方で、おれ自身におれ自身の生殺与奪の権利を与えるのも危ない。おれはそんな大したものではない。おれ自身のみになにか害があるのならともかく、他人に迷惑をかけてはよくない。

だから、信じるでも、信じないでもない、曖昧でなにもしない態度をとる。右からも左からも非難される。でも、それでよい。それでもへいちゃらで、おれはなにもわからんですよ、ごめんねってニョロニョロしてる。そんな感じがいいんじゃないかと思う。

あなたはどのように怪しいものに対して武装しているだろうか? していないだろうか? 警戒しているだろうか? 無警戒だろうか?

あなたはあなたを信じきれているだろうか?

まあ、どっちでもいいけどさ。