そもそも徒競走は必要なのか?

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また寄稿いたしました。

よかったら読んでください。

おねがいだから読んでください。

 

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はい、そういうわけです。

マックス・シュティルナーの先見の明に感嘆しましょう。

(一)政治的自由主義……カネによる支配

(二)社会的自由主義……社会による支配

(三)人道的自由主義……人間的なものによる支配

政治的に自由でも、資本主義だけが支配したら、人は資本家の、そして金の奴隷に成り果てる。じゃあ社会的に平等な共産主義的になりましょうとなったら、今度は「社会の、他人のためにならないもの」が排除される。じゃあ、最後に人道を、人間が人間らしくありましょうという社会になると、人間性が問われてしまう。この最後の段階まで批判したところがすごい。

だってもう、人間性、人間的なるものが評価されて、それによって人間に順番がつけられたら、負けた人間の立つ瀬がない。

だから、徒競走では足の速さだけ競い、ミスコン、ミスターコンでは見た目だけ比べるぶんだけ、まだ救いはあるのだ。

が、おれはさらに言えば、そもそも徒競走もミスコンもいらんといいたい。というか、学力もなにも比べてくれるな、といいたくなる。

「じゃあ、お前は運動会で手をつないでゴールするのが正しいと思うのか」というと、うーん……そういうことになるのかもしれない。あ、これ、今気づいたこと。

たとえば、自ら進んで足の速さを誇り、その鍛錬を楽しみ、記録を出し、ライバルを打ち負かすことを求めた人たちが集まってレースするのはいい。ミスコン……たとえばアイドルのオーディションでもなんでもいいが、それについても同じことだ。

が、全員に課すべきことかといえば、べつにその必要はないだろう。学校の体育なんてものは、運動、身体を動かすことの面白さでも教えればよく、「おまえはあいつより足が遅い」とか「1mでも遠くまでボールを投げろ」とか競わせる必要なんてあるのか。チームスポーツにしても、やりたいやつは民間のクラブチームにでも入ればいい。まあ、きっかけというか、一種の体験授業としてボールを投げたり取ったり、蹴ったりしてみたりするくらいのことはいい。でも、やりたくないやつにまで競わせる必要は、そもそもねえだろう。

だから、「手をつないでゴール」(というものが本当にあったかどうかは知らない)じゃない、それ以前に運動会の徒競走自体が必要ねえだろ。体育も座学も、生まれ持った能力によるところが大きい。その才能を活かしたいという人間同士でやっておればよろしい。

が、この現代においては、座学ができる人間が有利だ。それは事実だ。とくに算数、数学ができない人間は、よほどほかに得意なことでもない限り、社会の底辺を這いずるはめになる。しかもさらに、人間性までもが問われる。

いずれにせよ、大人になったら、人間の価値はその支払い能力によってはかられることになる。それが実態だ。それでは身もふたもないので、人間性みたいなものの評価もしよう、くらいが正しいのか。

昨日だったか、パナソニックが週休三日制度を取り入れるというニュースがあった。

パナソニック、週休3日制を導入へ 楠見社長が表明: 日本経済新聞

副業や学習、地域ボランティアなど会社外での取り組みを推奨し、社員が働きやすい環境づくりを進める

決して「一日休みが増えたぶん、一日余計にゴロゴロできるぞ」とは言わないのである。本音がコストカットであるならば、べつに休日なにをしようが会社はどうでもいいのだろうが、こう言うのが建前として必要なのだ。そういう価値観なのだ。「副業や学習、地域ボランティアなど」……ゲェ。

ま、そういうわけで、おれのようになりふり構わず食うことに精一杯で生きている人間には縁がない上級国民の世界の話ではあるが、そういうものも求められる。終わらない徒競走を走らされている。いや、終わりはある。いきなり来るかもしれない死。死だけは今のところ人間に平等だ。しかし、その道中、苦しんで走る必要はあるのか。その必要もない。もう人類は、不幸の再生産をやめよう。人類は滅んでもよい。