「はじめに」にだいたい重要なことは書いてある
権力はいまやこの世界のインフラのうちに存在する。
―不可視委員会
ぎゃあ、そうだったのか、おれたち、インフラの奴隷になっていたのか。なんでこうなっちまったんだ。
「民主主義とは、ありとあらゆる国家形態にとっての真理である」と書きしるしたマルクスはまちがっていた。民主主義とは、ありとあらゆる統治形態にとっての真理なのである。
―不可視委員会
うわあ、いいこと言ってるような気がするぜ! って、不可視委員会ってなんだ? 図書館にないぜ。ないから読めないぜ。でも、栗原康ってだれだ? 今まで何冊も読んできたが、いまいちわからんぜ。わからんけど、アナーキーだ。お行儀のいいアナキストじゃないのはわかる。今だ、今、やるなら今しかねえ、今以外にねえんだって覚悟を感じるぜ。だれの言いなりにもなるな、自分で舵をとれ! そう叫んでんだぜ。
そうだ、おれもあらためていうが、おれはリベラルでも左派でもない。アナキストだ。そのつもりだ。「尊敬する人物は?」と問われたら、「大杉栄と辻潤と清水成駿です」と答えるぜ。わからんけど。「バクーニンとブコウスキーと澁澤龍彦です」と答えるかもしれない。
まあいい。ともかく、共産主義による革命もだめだった。フランス革命もロシア革命もだめだ。それが前提だ。まるでだめだ。
たいてい革命と名づけられているものは、あたらしい権力をたてておわってしまっているからだ。旧来の秩序はぶっこわしました。でも、このままじゃ無秩序です。いまは過渡期にすぎません。そのさきに、あたらしい秩序をつくりましょう。わたしたちがみなさんに、よりよいインフラを提供しますよと。そういって、あたらしい憲法を制定して、自分たちの権力をうちたてる。けっきょく支配だ、収奪だ。
そうだ、そうなんだ。とってかわるだけなんだ。この犬が嫌なんじゃない、犬そのものが嫌なんだ!(……って大杉栄が言ってたと思う)。
はっきりと確認しておかなきゃいけない。あたらしい権力がたちあがった時点で、それはもう革命でもなんでもないんだと。だって、権力なのだから。真に革命的であるということは、権力なしでもやっていけるということだ。インフラなしでも生きていけるということだ。きっと、これまでの革命は、それだけでやっていくための準備ができていなかったんだとおもう。インフラをにぎり、あたらしい権力をたちあげようとする連中をだまらせることができなかったのだ。
永久革命家の悲哀! いや、悲哀を叫ぶのはあとにしよう(あとで叫ぶのか)。ともかく、「はじめに」でこう書かれているし、本書は、たぶん、これについて書かれているのだ。過去の有名無名のアナキストたちは、ついに成功することはできなかった。いや、そうだろうか。
ただのいちどでもインフラ権力にとらわれずに、常識なんかにとらわれずに生きることができたなら、そのひとはもうやみつきだ。いざとなったらなんとでもなる、なんでもできる、なんにでもなれる、オレすごい、もっとやれる、もっともっとやれる、死んでもやりたい、死んでからもやりたい。うれしい、たのしい、きもちいい。生きたまま死ね。もちろん、かんたんにつかまりたくないし、ぶっ殺されたくもない。いたいにもこわいのも、まっぴらごめんだ。だったらやれることはただひとつ。この都市のそこかしこに山をつくれ。権力者からみえなくなれ、不可視になっちまえ。トンズラこそが最大の武器。たまに山からおりてきて、ウキャキャっていいながら、壊してさわいで燃やしてあばれろ。そしていちもくさんに逃げるんだ。革命とは純然たる脱構成のことである。ぼくといっしょに山にのぼろう。きみはサルか、好兄弟!
「はじめに」から引用しすぎたぜ。でも、読み終えて、あらためて読み直してみたら、だいたい「はじめに」に書いてあったぜ。すごく親切だ。相互扶助だ。
第一章「社会契約っていつしたの?」
なのでここから加速していくと、第一章は「社会契約っていつしたの?」だ。まったくそのとおりだ。おれが小さなころから疑問だったのは、おれが選んだわけでもないのに、サインしたわけでもないのに、たまたまこの日本という国に生まれてきただけで、その法律に従わなきゃ罰せられたりする、その根拠ってなんなんだ? ってことだ。
「おい、こんなに恵まれた国に生まれてきてなにを言っているんだ? たとえばもっと貧しい国とか、独裁政権とか……」とか言いたい人の気持はよくわかる。日本はわりと、けっこう、かなり、そうとうに恵まれている国の方に属している。でも、それとこれとは、話のレイヤーが違う。生きるのも、なにか表現するのも苦しい独裁政権下に生まれて、おれと同じ問いが発せられたら、聞く耳を持つ人は増えるかもしれない。でも、それって、このレイヤーでは同じことだよなって思うわけだ。
飯屋に入っていきなりアジフライ定食が出てきて、それがうまいのはいいが、べつにおれは頼んでないんだよな、という話だ。そもそもおれは「アジフライ定食専門店」を選んで入ったわけでもないのだ。そこんところの、法や支配やアジフライについて、おれはずっと疑問に思っているのだ。そりゃあ、問題がないわけじゃないが、このおれのような人間が何十年も生きられているこの国は悪くない。でも、どうせなら根拠みたいなもんが知りたいんだ。ホッブズから読み直せってか? もっと昔か? アリストテレスか?
話が逸れた。たぶん。でも、著者の栗原さんが「選挙なんていかなくていいんだ!」って言い切るところはいい。おれは投票大好き人間なので(おもに勝馬投票)、思わず選挙には行ってしまうが、そもそも行かなくてもいいぜって思ってるし、なかなか怯んでしまって言えないところもあるけれど、これからは言ってもいいかななんて思わなくもない。
でもって、「原始人は自由にさきだつ」って言うのだぜ。クロの相互扶助論も出てくるぜ。マーシャル・サーリンズ、デヴィッド・グレーバー。
さいごにもういちど確認しておきたいのは、社会契約論がまもろうとしているのはなにかということだ。こたえはかんたん、奴隷制である。
第二章「自由をぶっとばせ」
『ギャングース』の話からはじまるが、読んでねえな『ギャングース』。読みたいとは思ってるんだが。
それはそうと、マックス・シュティルナーの話になる。大杉栄風に書けばスティルネルだ。おれの日記でシュティルナーと検索すると、こんな記事が出てきた。
アナキズム・アンソロジー『神もなく主人もなく』1巻を読む - 関内関外日記
……しかし党派は、一定の諸原則を強制し、それらをいっさいの攻撃から守ろうとするとき、結社ではなくなる。この瞬間がまさに党派誕生の日である。それは、党派として構成された(生まれながらの)社会、死んだ結社である。それは固定観念のごときものとなる。絶対主義の党派としては、その原則の無謬性が党員たちに疑われるのを認めまいとする。
マックス・シュティルナー
おお、おお、いいところ引用しているな。こりゃあマルクスに攻撃されるだけあるぜ。だが、おれはシュティルナーの言いたいことを全体的によくわかっていなかった。著者がまとめてくれた。
『唯一者とその所有』で、シュティルナーは自由主義を三つに分けているという。
(一)政治的自由主義……カネによる支配
(二)社会的自由主義……社会による支配
(三)人道的自由主義……人間的なものによる支配
(一)の自由主義では、とにかくカネがものを言う。奴隷制の一つに過ぎない。これはまずいと(二)になる。共産主義的な社会だ。これもあかんという。みんながみんなのためにと言っていると、みんなのためにならないことはできなくなってしまう。有用な労働だけがほめられる。スタハノフ! ウラー!
となると、(三)で手を打たないか、ということになる。労働は人間的なものにすべきだ、と。スキルをみがいて自己実現、あなたのクリエイティブ性を発揮、そんな労働と人生。すばらしい。
……わけがねえ。
でもね、とシュティルナーはいうわけだ。これは逆にやばくないっすかと。毎日、毎日、いやもっといえば毎分、毎秒、たえず自分をたかめる努力をしないといけないということなのだから。そして、それができたら人間的だということは、できなきゃ、おまえ人間じゃねえよといわれているのとおなじことだ。個性がない、創造力がない、ひととしてできそこない。よりよくなれ、よりよくなれ。日曜もやすんじゃいけない? 自分で自分にプレッシャーをかける。よりよくなれ、よりよくなれ。
そうだ、こんなのも自由じゃねえ。そんなんじゃだめだ。純然たるエゴイストになれ、唯一者になれ。人間的にすぐれてるとかどうとかどうでもいいんだ。悪くない。
ちなみに、この章でギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』が引用されていて「おっ」と思ったが、おれはこの本が難しすぎて放ってしまったことを告白しておく。
まあともかく栗原康は吠える。
上から価値をおしつけるとか、下から価値をつくりだすとか、そういう問題じゃない。価値そのものがいらないんだ。むずかしいことじゃない。スクウォッティングの原点にたちもどれ。クソ、クソ、クソ。なにをやってもなんにもねえ。クソのあとにはクソしかねえ。とどのつまりはクソなのだ。おれは有意義な生活がしたいんじゃない、ダラダラしたいだけなんだ。
まったくだ!
第三章 革命はただのっかるものだ
ルイズ・ミシェル。おそらく、名前をしっているというひとは、だいたい、日本のアナキスト、大杉栄がその名前にちなんで、娘にルイズとつけたことでしっているんじゃないかと思う。
ギクッ、読まれている。まさにそうだ。
(大杉の遺児を立派なアナキストにしようとした大杉一派残党の動きは残念よな)
まあいい、「マジでぶっとんでるひと」であるルイズ・ミシェルについて、くわしく紹介してくれている。読め。ついでにいえば、話にブランキ派が出てくるので、オーギュスト・ブランキの話に脱線する。ブランキといえば、どちらかといえば少数精鋭による独裁狙いの革命家だが、アナキストにもけっこう評価されている。だいたい、人生のほとんどを革命と牢獄ですごしているのだからすごい。そして、おれにとっては『天体による永遠』を書いた人なのだからすごくすごい。
『天体による永遠』ルイ・オーギュスト・ブランキ - 関内関外日記
ついでに『革命論集』で算数の計算を間違っていたところも好きだ。
まあいい、算数なんてくそったれだ。とにかくブランキは革命、革命、革命! の人なのだ。その一途さに、アナキストも惹きつけられるところがあるんだと、勝手に想像する。
でもって、話を戻すと、なんでこれ、パリ・コミューンが敗北したのか、そのあたりがわかりやすく説明されている。
「アニキッ!」と言いながらルイズ・ミシェルの話だ、いいぞ、マジヤベエ!
— 黄金頭 (@goldhead) 2021年12月9日
『何ものにも縛られないための政治学』栗原康 pic.twitter.com/zgy2tCdO5Y
なんかアニキッ!と連呼されているが、わかりやすいのだ。あと、なんで現実的に無政府主義が弱いのかというのも、少しわかる。
第四章 革命はどうやっちゃいけないのか
「よしっ、ロシアだ。」という書き出しで始まる本章。ぜんぜん「よし」じゃないのは、「はじめに」でもなんでも書かれていたことだろう。革命家は革命を殺すのだ。ボルシェビキ! 革命を殺す革命家をぶっ殺そうとしたアナキストたちもいたが、だいたいぶっ殺される。
が、殺されなかったアナキストもいる。ネストル・マフノ。大杉栄が自分の子供にネストルと名づけたこと以外でも知られているかと思う。マフノのやり方、生き方、これがドーン! ドーン! そんでもってウーラー! でもって、トンズラ! これがアナキストのやりかた。マフノについては読まなきゃな!
プーチンのロシアとウクライナの現在が見えてくるかもしれない(ぜんぜん見えないかもしれない)。しかしもう、これは講談の世界だな。講談の世界しらんけど。
はてさて、こうしてロシアの革命反乱は鎮圧された。モスクワのクロちゃんは、十月革命のあとに、ああ、革命はおわりもうしたっていっていたが、まあもうすこしながくとって、このクロンシュタットとマフノがやられたときってのが、ほんとうの意味で、革命がおわったときなんじゃないかとおもう。しかもこれがおっかないのは、ロシアの革命の芽がつまれたっていうだけじゃない。世界中のあらゆる革命の芽がつまれたってことでもあるわけだ。だって、このあとロシア革命は、よきにつけあしきにつけ、革命の成功例としてかたられるようになっちまうのだから。
クロちゃんとはクロポトキンのこと。クロとかクロちゃんとか、のちの日本でそんなふうに呼ばれるとは想像もしていないに違いない。当たり前か。
ともかく、ロシア革命みたいに革命をやっちゃいけなかった。新秩序もいらねえ、権力もいらねえ、ただ破壊せよ!
第五章 ゼロ憲法を宣言する
グスタフ・ランダウアーというアナキストについて語られている。一遍上人と同じ頃の人で一遍上人と「マジでおんなじようなことをいっている」らしいのでチェックしたい。
権力者の炎が燃えさかるのは、つぎからつぎへと、自発的隷従っていう薪がくべられるからだ。じゃあどうやったら火がきえるのかというと、かんたんだ、薪をあたえなけりゃいい。テメエの薪をもちさって、シレッと逃げてしまえばいい。そうすりゃ、戦うまでもなく、権力の炎はきえてしまうだろうと。
これである。「国家とは非対称の関係にうつるんだ」だ。同じように軍隊作って戦っても、アナキストは統率がとれねえし、だいたい負けちまう。たとえ「革命」に成功しても、新しい権力を作ったら同じことだ。国家とは非対称に。おれ、おぼえた。
「おわりに」
「おわりに」にも本書のまとめが載っている。すげえ親切だ。おれは記憶力がないので、メモして終わる。
(一)国家の廃絶 :破壊とは想像の情熱である。
(二)パルチザン :国家とは非対称なたたかいをしよう
(三)戦闘的退却主義:パルチザンシップを生きろ
さあ、叫べ!
……って、おれ、タイトルに「なぜアナーキーは成立しないんだぜ?」とか書いているんだぜ? そうだ、おれにはおれの思うところ、すなわち、著者の言うことはわかるんだが、そうもいかねえんだよという弱音を書こうと思っていたのだ。でも、今はやめておくぜ。いつか書くかもしれねえぜ。というか、成立したらアナーキーではないのか? そうかもしれん。また考える。それじゃ!
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……この映画のパンフレットの解説で栗原康という名前を知ったのだっけ?