僕がブランキを敬愛する理由。

武装蜂起教範

革命論集

革命論集

 革命など、市民が戦闘行為をする場合には、正規の工兵がいないため、防衛策としてはありあわせのものでバリケードを築くことになる。近代フランスの革命家のルイ・オーギュスト・ブランキの著した『武装蜂起教範』は、パリで武装蜂起した革命派のバリケード形成についての古典的マニュアル本でもあった。

 Wikipediaの「バリケード」の項目にも取り上げられている「武装蜂起教範」、『革命論集』にも第五章に収録されていた。書き出しは次のごとくである。

 この要綱は純粋に軍事的なものである。

 というわけであって、なるほどそれまでは感じられなかった、革命の実行者ブランキの面目躍如という章だ。内容も実に具体的であって、何人の単位でどういう組織をつくり、士官はどのように選抜し、どのような兵の動きがあり、軍備、食糧、保安などの各委員会はどのような任務を帯びるか……といった具合だ。組織だった軍隊に、寄せ集めの市民では勝てない、ということが要旨だ。

勝利に絶対不可欠(シネ・カ・ノン)な条件とは、まさに組織、協力、秩序、起立である。正規軍が組織された蜂起の力にいつまでも対抗しつづけ、政府権力の全機関をあげて行動することはありえない。ためらいが部隊をとらえ、つづいて動揺、士気喪失、ついには潰走が起こるのである。


 理念、情熱の上に組織があれば、政府軍などには負けない、ということだ。
 まあ、このあたりは、今後、俺が19世紀の軍隊相手にバリケード戦をやらない限りは役に立たないような話ばかり……と、言い切っていいかどうかはわからないが、まあそのような話である。アルベルト・バーヨの『ゲリラ戦士の150問』を思い浮かべていただければいい。

140年前の計算ミス


 その中でも、数式を出して綿密に解説しているのが、バリケードの作り方である。公道の舗石をひっぺがして、どのようにバリケードを築くか、という話である。

 二十五センチ角の舗石六十四個で一立方メートルとなる。防禦壁および保障壁の内壁の高さと幅は常に一定である。すなわち高さは三メートル、幅つまりは厚さは一メートルである。長さだけは通りの幅如何によって変化する。
 たとえば、通りの幅が十二メートルあると仮定しよう……

 バリケードおよび保障壁は合計百四十四立方メートルになる。舗石六十四個で一立方メートルであるから、全体では九千百八十六個の舗石がいることになる。

 と、この九千百八十六個のところに訳注6がついている。巻末の訳注を見ると、以下のように記されていた。

6 正しくは九二一六個。ブランキは計算を間違えている。

 いや、思わず笑った。ブランキは計算を間違えている。なんというか、いいじゃないか。てめえのゲリラ戦教本が百何十年かあとの異国で訳され、計算間違いを指摘されているんだぜ。なんかいいよなあ、そうか、お前も算数苦手だったか。うん、俺も苦手だ、よくわかるよ。でも、いいんだよな、そんなこまけえこと。現場で合わせてくれるよ、うん、なあ。
 ……などと、勝手にブランキを「算数できない子」に引き入れていいものかどうかわからんが、俺は俺の算数のできなさに誇りを持っているので、なんとなく嬉しくなってしまったのだ。ブランキには悪いが。つーか、もちろんブランキ、べつに算数できねえわけがない。兄は経済学者だし、嫁は建築家の娘だし、ともかく当時のブルジョワ教育を受けたエリートだもの。この高卒のぼんくらとは大違いだ。

ただ私の家族、私の受けた教育からすれば、私もまたブルジョワであるし、君にしたって同じことだろう。
「マイヤールへの手紙」

 まあ、しかし、それでも、人間誰にでもミスはあるし、それにこの教範だって、生前に刊行されなかったってんだから、出版前に校正するチャンスもなかったんだろう。でもね、なんかね、いいね、計算ミス、人の生きた痕跡だよね。

SINE QUA NON

本人の言葉であること。数字があまり出てこないこと。複雑すぎないこと。

黄金頭 on Twitter: "昨夜は『けいおん!』を四話ほど見返したのち、『明恵上人伝記』を少し読んで就眠。なにか夢を見たような気がするが、思い出せず。本当にいま読みたいのは、ブランキやバクーニンだ。本人の言葉であること。数字があまり出てこないこと。複雑すぎないこと。"


 まあ、なんというか、もっと計算ミスじゃなくて、なんか人間の魂に触れるところ、精神に触れるところで、そりゃ共感があるから読んでるんだ、俺は。だから、たぶん、俺のわからない難しい用語、そして科学、数式じゃだめなんだ。そして、それらをつかって、その誰かを言及してるようなのよりも(もちろんそれは無知な自分にとってすごい助けになるだろう)、やっぱりなんか突出して、歴史に名を残してしまった誰かの言葉に触れたい、そう思うんだ。なんというのか、そういう魂というか、そのあたりは、決してどう証明していいかわからんし、ブランキにいわせりゃ、「なに言ってんだ、俺は科学の話をしているんだ」って言うかもしれねえけどさ、それでもさ。もちろん、ロスト・イン・トランスレーションでたくさん失われるだろうし、俺の知識の欠如、あるいはこの時代とその時代の違いとかさ、そういうものもたくさんあるだろうけれども、どっかしら人間一緒じゃないのかっていうところもあるだろってさ。

 あきらめろとはいっていない。おれは真の人間精神の味方だ。たとえ、それがどこにあろうと、どこに隠れていようと、どんなものであろうと、おれは真の人間精神の味方だ。だが、ペテン師には気をつけろ。やつらはまことしやかな話をしておきながら、とっとと仲間を見捨てるんだ。気がつけば、自分だけ四人の機動隊員と八、九人の州兵に取り囲まれて、腹這いにさせられてうめき苦しむはめになる。
ブコウスキー・ノート』

 って、チャールズ・ブコウスキーも言ってるし。なんだろう、真の人間精神ってさ。わかんねーけど、壁と卵でいえば卵、みてえな? それで、俺はそういう共感みたいなところからしかはじめられないし、理路や科学が先行できないタイプの人間だ。そりゃそのうち上がり三ハロン三十三秒の豪脚で精神をぶち抜くかもしれないが、その日がくるとも思えない。俺はあくまで、そのあたりでしか思想家や革命家、宗教家の言葉を見ることしかできない。たぶん、マルクスあたりもおもしろいおっさんだったんじゃないかとは思うが、あんまり難しいことばっかり言ってたらごめんこうむりたい。ちなみに、ブコウスキーはこう述べている。

 学問したいのなら、カール・マルクスは読むな。カチンカチンに乾いたクソにすぎない。どうか精神(スピリッツ)を学んでくれ。マルクスプラハを駆け巡った戦車にすぎない。プラハでのこんな手口にどうかだまされないでくれ。なにはさておき、まずセリーヌを読め。歴史始まって以来最高の作家だ。もちろん、カミュの『異邦人』もだ。ドストエフスキーでは『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』。カフカの全作品。無名の作家ジョン・ファンテの全作品。ツルゲーネフの短編。フォークナー、シェイクスピアは除外する。とりあわけ、ジョージ・バーナード・ショウは絶対に入れない。ショウのものは、現代を描いた、でたらめな大ぼら作品で、信じられないほど政治と文学をごちゃ混ぜにした、まさにクソ味噌文学に他ならないからだ。もっと若い作家で、ショウが舗装した道を歩き、必要とあればショウの尻まで舐めそうな作家で思いつくのはヘミングウェイだが、ヘミングウェイとショウとのちがいは、ヘミングウェイは初期にはいくつかいい作品を書いたが、ショウは最初から最後まで完璧にばかばかしく、つまらないダボラ作品しか書かなかった点だ。
ブコウスキー・ノート』

 ふーん、俺はめちゃくちゃにディスられてるのを含め、ここに挙げられた作家のほとんどの作品を読んだことがない。幸いにも、手に入れることは容易なのが多そう。やっぱり、そのうち向き合ってみるか、せっかくだし。そんじゃあ、おしまい。