ブランキ『革命論集』を買って読んでる。

革命論集

革命論集

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 『天体による永遠』に感銘を受けた俺、『革命論集』にも手を出してみた。いったい、あの天体の観念と革命という地上のことがら、いったい彼の中でどのように繋がっているのか、そのあたりが気になった。まず、関曠野という人の「解説」を読んでみた。マルクスエンゲルスヘーゲル伝授の弁証法フーリエプルードン、ブランキを総括したというあたりを疑い、もう一度それぞれの思想を検討すべきだ、とか、彼は真打ちマルクスの前座ではないのだ……というあたりについてはようわからんが、つぎのようなくだりがあった。

フーリエにはユートピア(それは単なる空想ではなかった)があったのに対し、ブランキには大革命に対する激しいノスタルジアがあった。そして社会の目標として大革命の再演という回答が既に与えられていたために、彼は未来社会の青写真を引くことに全く無関心でありえた。彼は政治的リアリストとしてではなく過去への郷愁と追憶に生きる人として、ユートピアを拒んだ。

行動の人ブランキは歴史や経済の理論を持たず、ひたすら大革命のドラマを反復しようと欲した。彼は歴史をとんでもない加速度をつけて生きたために、歴史の外に飛び出してしまい、同時代の社会の中に居場所がなくなってしまったような人間だった。そこで彼は幽閉され、政治における永遠にして絶対的なるものに出会い、その化身となったのだ。

政治とはあまりにも人間的な事柄なのだと世人は言う。しかし天体の永遠を説く革命の聖者ブランキは、人間の惨めな自惚れ、ヨーロッパ人の西欧中心主義、人類の地球中心主義をサドを思わせる不敵さを以って嘲笑する。

 ……さあどうだろうか。本編を読み進めた俺は、どうも今これを写していて「そうかな?」という感触がある。感触であって、俺には思想の組み立てのようなものがないので、なんともいえないが。ただ、どこかの誰か(ブランキの本の解説を書くような人)が「郷愁と追憶に生きる」とブランキを評価するあたり、感傷と追憶趣味の俺が、なぜかこの古い時代の革命家にひかれてしまう理由を説明しているような気もして、なんとなく悪い気もしないのだった。

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 で、どこらへんが「そうかな?」なのかな。うーん、未来への想像というか、そのあたりについては、プルードンやらバクーニンやらクロポトキンらのアナーキストと似たような、そんな熱さみてえなもんがあるように、そう思える。まあ、同様に、なんか漠然としてるわな、というのがあって、それが青写真とは呼べない、みてえなのもあるんだろうか。ただ、ともかく、左翼全体主義? みたいな、そういう感じの印象はないな。アナーキストなんじゃないの? というような、いや、なにがアナーキズムかよくわからんけど、そういうところを感じている。

無知と共産制は両立しえぬものである。共産主義なしに教育が普遍のものとなることはありえず、教育なしに共産主義が普遍となることもありえない。
第四章『社会批判』 二 共産主義―未来の社会(以下同)p161

 人間の持つ才能のうちでも最も有用で、とりわけ防御に役立つ能力。われわれを内からも外からも他人からも自己からも同時に守ってくれる能力。すなわち判断力は、現在はあまりにも稀少な存在となっているが、これも全面的な教育により飛躍的な発展を遂げ新しい社会の武器となるであろう。
p167

 と、ともかく教育が大切だと。「知識人ばかりになったら、誰が働くのか?」とかいうのは、僧侶の欺瞞だと。それでもって、「判断力」、リテラシーが大切だというわけだ(そういや、西原理恵子の強調する教育とカネ、このあたりはズバリだな)。今も言われている。われわれは飛躍的な発展を遂げていないのかしらん。それで、教育が皆に行き渡ったらどうなるの?

人々は鋭い透視力を有するようになり、すべての人間の欠陥と特徴の一つ一つをまるで金魚鉢のなかのもののように数えることができるようになるだろう。ああ! 人は嘲笑や罵声を浴びながら、常に正直な道を歩まねばならないであろう。しかし一方、寛大が人々の心の基盤となるだろう。なぜなら科学の絶対的命令により、恣意は姿を消すだろうから。犯罪はといえば、これは資本およびその父であり母である宗教とともに消滅してしまう。
p168

 とまあ、このあたり、なんかクロポトキンの自由人とか、そんなんみたいだなって。あーやっぱりなんだ、青写真ではないのかな。
 でもって、しかし、なんだ、たとえば、当然のことながら「人間の理性や科学ってのは、そんなに信頼に足るものなのかよ? 科学に信頼がおけたとしても、それを扱うのは人間だぜ?」って考え方もあるだろう。あるだろうっていうか、つまりは俺の中にすげえあって、たとえば俺が俺自身を共産主義者ではないなって考えるのはそのあたりなんだろうと思う。
 ただ、なんというのか、この理想というか、行きつくところを夢見るところ、そのあたりの情熱というか魂、そういうものにはものすごくひかれるところがある。そのあたりはSF的、宇宙的、天体的に好きなんだ。それでもって、なおかつ、言ってる本人らが、「俺の言う通りにすれば、明日からにも理想実現だ」とか言ってなくて、なんか弱音じゃないけど、ちょっとそういうところで投げっぱなしにしてくれていると、なおさら好感度はアップするというわけ。

夢がすぐに明日の現実になるなどと考えてはならない。この夢は、月旅行以上に危険をはらむものといえよう。しかしそれにもかかわらず、精神の変革なしに不可能なこの夢は、やむにやまれぬあまりにも正当な夢なのである。
p165

 そう、この「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」の夢なんだよ、それがいいんだ。いや、大和魂じゃねえけれども。

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 だいたいまあ、なんというか「革命論」といっても、しっかりまとまった一本の論文、著作というより、なんか学生時代のアジビラみたいなのとかも収録されていて、その時代の同時代的? な内容が多くて、変な話、身近に感じられるというか。あと、四季協会入団儀式問答なんかも入ってたりさ。なんつーか、いや、まあおもしろいわ。俺、経済とか政治の基礎? みたいなものは持ってないけど、なんだ、なんか150年前から政治談義みてえなのは変わらないな、とか、そんなんあったりしてさ。

 共産主義を論じる時、敵がいかに恐慌を来してこの宿命的器具に思いをめぐらさざるをえなくなるか、考えるにだに面白いことである! 「誰がおまるの始末をするのだろう?」 いつもこれが敵の第一声なのだ。本当に言いたいことは「誰が私のおまるの始末をするのだろう?」ということだ。でも、敵は狡猾だから、所有代名詞を使うようなことはせず、寛大にも子孫に警告を発するということになるわけである。p.174

とにかく、あと半分読もう。それで、そのあと、『バブーフの陰謀』を読む予定っと。

追記______________________
 この記事をアップしたあとにこちらhttp://d.hatena.ne.jp/sionsuzukaze/20091013/1255416322を拝読。wikipedia:エドマンド・バークは気になる。そうなんだな、なんか俺は、科学に全乗りできないというか、やっぱり啓蒙や理性が人類に行き渡るわけがないというか、すべての人間に叡智を授けてみせろってアムロに言われても困るみたいなところがあって、しかし、愚かさそのままに変われないものかというのを期待していて、それは即身成仏じゃねえかとか妄想している。誇大妄想、狂気だ。56億7千万年後のことだ。

 人間生活の終末は、すべての人工組織から開放せられて、自らの組織の中に起居する時節でなくてはならぬ。つまりは、客観的制約からぬけ出て、主観的自然法爾の世界に入るときが、人間存在の終末である。それはいつ来るかわからぬ。来ても来なくてもよい。ひたすらその方面へ進むだけでたくさんだ。
 それまでは人為的組織は、それを作り上げるまでのさまざまの条件の転化するにつれて、転化するにまかせておく。さまざまの条件とは、自然界環境と、組織構成員の知的・情的・意的進転である。(この内外の条件は最も広い意義においていうのである。)これらの条件はいつも移り変わりつつあるので、それを大にして、人間が考え出し作り始めた社会組織なるものは、けっして永続性を持たぬ。また一場所・一時代における構成が、そのまま、いつまでも、どこへ行っても、完全であるとは、夢にも想像できぬ。それゆえ、いつも不定性・移動性・局部性を持ったものと、考えておかなくてはならぬ。
 自然の環境の人工によって変更を加うべき範囲は、知れたものである。ただ、いつも変わらぬと見るべきもの、否、しかと見定めなくてはならぬものは、われら内面の自由な創造力である。これを内面というのは、前にもいったごとく、すこぶる物足らぬいい現しではある。が、今はこれを詳しく論ずるひまがない。いずれにしても、われら人間の内面性の極限にあるものは、万古不変だ。これは、人間社会組織のほんとうの根源だから、何をやるにしても、考えるにしても、われらはここに最後の考慮を据えつけておかなくてはならぬ。
鈴木大拙「現代世界と禅の精神」

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