この本の「編者」(本当は単一引用符にしたいのだが、Google日本語では出しにくいので普通の括弧にする)たるK.Vのまえがきと、ヴェトナム帰還兵にして未決囚ユージン・デブズ・ハートキ著『ホーカス・ポーカス』本編の間に、おきまりの墓の絵がある。上には「この純然たる創作の産物を故人の思い出に捧げる―」とあり、墓石の中にはこうある。
ユージン・ヴィクター・デブズ
1855-1926
「下層階級が存在するかぎり、
わたしはそれに属する。
犯罪分子が存在するかぎり、
わたしはそれに属する。
刑務所に囚人が存在するかぎり、
わたしは自由ではない」
俺の好きなバクーニンもそんなことを言ってたような気もする。そういえば、俺の好きなブランキはちょっとヴォネガットっぽい言葉を残している。
共産主義を論じる時、敵がいかに恐慌を来してこの宿命的器具に思いをめぐらさざるをえなくなるか、考えるにだに面白いことである! 「誰がおまるの始末をするのだろう?」 いつもこれが敵の第一声なのだ。本当に言いたいことは「誰が私のおまるの始末をするのだろう?」ということだ。でも、敵は狡猾だから、所有代名詞を使うようなことはせず、寛大にも子孫に警告を発するということになるわけである。
俺はwikipedia:ユージン・V・デブスの著作を読んだことはないけれど、たぶんきっと悪いやつじゃないと思う。
……と、おれなどはわりとのんきに古いアナーキスト、革命家、そういった人々に共感を示し、尊敬の念を抱く。もちろん、ヴォネガットにも似たようなものを抱く。そういうやつらは、あたりまえのように決まりきったこと。たとえば、富の相続であるとか、土地の私有であるとか、そういったことに、でっかいクエスチョンマークを提示する。おれも頭が悪くてよくわからないので、でっかいクエスチョンマークに乗っかる。
俺
?
かといって、俺がなにか数奇な運命をたどっちゃいないし、あるいは『トラルファマドールの長老の議定書』どおりに宇宙の操り糸に動かされてるだけかもしれない。〈グリオ™〉に尋ねてみても、自死か、路上か、刑務所かの三択が待っているだけだろう。こんなはずだったのかもしれない。
でっかいクエスチョンマークに対して、なにかやろう、解決してやろう、わかってやろうという人間というのはたいしたものだと思う。なにか実行に移せるやつというのはまったくたいしたやつで、なんにしろやったやつは無条件に偉いと思う。
ただ、それが、ドレスデンや広島、アウシュビッツにつながるような「実行」というのでは、いくら歎異抄でもカバーしきれないところもあるだろうし、やはりえらいという気にはまったくなれない。ただ、スターリンはスターリンなりに革命をしようとしたのかもしれないし、そうだったという人もいるだろう。どこかの国では毛沢東派は健在だ。埴谷雄高が言うみたいに、革命が成功したら、革命家は死ぬべきなのだろうが、さて、そのあとは?
まあ、どうもわからないしよくわからない。教育や経済、そして富の分配。俺は致命的に算数ができないので、なにがどうなっているのかまったくわからない。とくに経済というやつには、ウサイン・ボルトにかけっこで勝負するくらいの不可能さがあって、まったく手に負えない。せめて算数ができたらいくらかマシな人生が送れたのか、〈グリオ™〉に聞いてみたいものだが。
ところで、本書の語り手は汚い言葉を使わない。ベトナムで新兵を鼓舞する、いわばハートマン軍曹みたいな立場でも、だ。だから「説教師」というあだ名までついた。祖父の教えで、汚い言葉を使うと、本当にその言葉を届けたい人に耳をふさぐ理由を与えてしまうからだという。『スローターハウス5』が米国各地で「きたない言葉」を理由に焚書されたって『パームサンデー』で書いてた。だから、本書では排泄物、という単語がよく出てきた。
さて、上の写真、これは都内某所、小学校の斜向かいのビルの前にあった裸像なんだけれども、まあなんとなくこれを見かけてなにか関係あるような、ないような気になった。おしまい。
ああ、あと、なんだろう、この本ではアメリカが日本や韓国やインドやいろいろの国に買われまくっているんだけど、今読むとなんか買われまくってる日本みたいなものが連想されたりするけど、まあ結局、どっかに支配階級はいるんだよな、とか(六本木とか)ね。それと、発達障害という言葉は出てこないけど、そのへんとか、まあいろいろぶち込んでくるよ、SF作家とかいう優秀なプレコグは。