むらさき色のマザーファッカー、再読『タイムクエイク』カート・ヴォネガット

タイムクエイク (ハヤカワ文庫SF)

タイムクエイク (ハヤカワ文庫SF)

 『タイムクエイク1』の前提は、タイムクエイク、つまり、時空連続体に発生したとつぜんの異常で、あらゆる人間とあらゆるものが、過去十年にしたことを、よくもわるくも、そのままくりかえすしかなくなる、というものである。いわば既視感(デジャ・ビュ)が、えんえんも十年間もつづくわけだ。この人生は中古だとぐちることもできないし、自分の頭はどうかしたのか、みんなの頭はどうかしたのか、と問いかけることもできない。
 あなたが初回の十年間にいわなかったことを、このリプレイ中にいおうとしても、それはぜったいにむりだ。もし初回でそれに成功していなければ、自分の命や、愛するものの命を救うことさえできない。

 エンドレスエイトの影響で、ふとヴォネガットの『タイムクエイク』を思い出した。思い出したが、話の筋を思い出すことができなかった。文庫本をさがした。俺が頭の中でぼんやり思い浮かべていたのは『タイムクエイク1』だった。本書は『タイムクエイク2』、その小説の「いちばんましな切り身と、ここ七ヶ月ほどの感想や体験談をまぜたシチュー」だった。そうだった。俺はすっかり忘れていた。
 これはもう、なんといっていいのかわからない小説だ。夢幻、幽玄のようでもあり、追憶と感傷、俺の好物のような話だ。そして、ヴォネガットの芯のようなもの、ヒューマニズムのようななにかが色濃く表れている。そして、いくつかの、キルゴア・トラウトの小説。
 そのうちから、一編を引用したい。『笑いごとではない』というタイトル。二次大戦後、アメリカの爆撃機≪ジョイズ・プライド≫の乗員に対する秘密軍法会議が開かれる。爆撃機の名前は、「機長の母親、テキサス州コーパス・クリスティの病院で産科の看護婦をつとめている、機長の母親にちなむ。

 物語はこうだ。原子爆弾が広島に落とされ、つぎにもう一発が長崎に落とされたあと、≪ジョイズ・プライド≫はさらにもう一発を横浜の“二百万の黄色いちび野郎ども”の頭上に落とす予定だった。その当時、黄色いちび野郎どもは、“黄色いちび野郎ども”と呼ばれていた。なにしろ戦時中である。トラウトは第三の原子爆弾をこんなふうに描写している―「中規模のジュニア・ハイスクールの地下室のボイラーに負けないほどでっかい、むらさき色のマザーファッカー」

 いよいよ爆撃機が目標に接近したとき、機長はインターコムをつうじて自分の考えを述べる。この任務が完了したら、産科の看護婦をしている母親はきっと故郷の有名人になるだろう。≪エノラ・ゲイ≫が広島上空でその積荷を投下したあと、その爆撃機と、その名の由来となった女性は映画スターなみに有名になった。しかも、横浜は広島と長崎を合わせたより二倍も人口が多い。
 しかし、そのことを考えれば考えるほど、しだいに機長はこう確信するようになる。夫を亡くしたあの優しい母が、記者団から、息子の乗った飛行機がおおぜいの民間人を一度に殺す世界記録をうちたてたことへの感想を求められて、うれしいなどというはずはない。

 とにかく、≪ジョイズ・プライド≫の乗員たちは、インターコムをつうじて、自分たちもそれに同感だ、と機長に伝える。いま、空にいるのは自分たちだけだ。もう日本には飛行機が残っていないので、戦闘機の護衛もいらない。戦争は終わり、あとは事務処理だけ。この状況は、あえていうなら、≪エノラ・ゲイ≫が広島を火の海にする前からすでにそうだった。
 キルゴア・トラウトを引用すれば―「これはもう戦争ではないし、それをいうなら長崎の抹殺もおなじことだ。これは『アメリカ軍よ、ごくろうさん!』だ。いまのこれは、ショー・ビジネスだ」

 ……さて、この話のどこが『笑いごとではない』のかは、実際に読んで下さい。たしか、『スローターハウス5』で、ドレスデンの爆撃の被害の大きさを描くあまり、原爆が過小評価されているような表現があったとかいう批判もあったと思うが(俺はそんな些細なつっつきは好きじゃない)、そんなのは本当にどうでもいいんだよ。そのあと、トラウトがみじんの後悔も見せずに、二次大戦中、「噴火する大地と爆発する空のあいだでドイツ軍の兵士たちをサンドイッチにした上から、カミソリの刃を雨あられと降らせていたよ」って言ってるからって、なんつーか、あんまり当事者性だとかどうかとか論じるのはなんか違うって思う。
 つーか、三発目の原爆、むらさき色のマザーファッカーがここに落ちなかったという、そこんところが、それがいいじゃないか。なんだろう、わかんねーが、ヒューマニズムヒューマニズム、自由、神に対する物言い、どっかしら、バクーニンなんかと、アナーキストたちと通じるところがあるように思う。それで、俺はまた、アナーキズムと禅、仏教がどっかしら通じているような、似ているような気もしている。そして、ヴォネガットと禅はどうなんだろう。この本のあとがきに、アメリカでの書評がいくつか紹介されていた。そのうちの一つ、サンディエゴ・ユニオン=トリビューン紙のものには、こんなことが書かれていた。

 『タイムクエイク』には、禅の公案のように、そこかしこ滑稽な部分がある。しかも、二十ダースの公案集と同じように読みやすい。読みやすさのあまり、わたしは四週間のうちに三度もこの本を読み返した。だが、まだ読み返す必要がある。『タイムクエイク』は、二十ダースの公案集とおなじように、あっさりとは理解できないからである。

 ……そうなんだ、公案集ってのは、読んでしまえばあっという間だし、どっかしら滑稽だ。不条理でようわからん一喝を食らわされて、それで、強烈なフックを持ってるんだよな。そういう、なんつうのか、あの、独自の消息ってのは、ひょっとすると、すぐれたSFが俺を連れて行ってくれる、あれに似ているかもしれない。違うかもしれない。
 禅―アナーキズム―SF、そのあたりで、なんかこう、グッとくるところがあるんじゃねえかとか、そんなふうに、ちょっと俺は思っている。さあどうだか。それじゃあ。

関連______________________

 ……ヴォネガットのあらかたを読んだのは、日記より前だから、あまりメモが残っていない。