私と教育

革命論集

……教育は無償かつ義務的であるばかりでなく、完全でなければならない。読み書きを知るだけでは何も知らないのとほとんど同じことである。使えない道具が何の役に立とうか。フランス語、算数、天文、初歩幾何学、地理、歴史、図画、地質学や物理化学の基礎知識、こういうものを例外なくすべてのフランス人に教える必要がある。職業教育はあらゆるところで大規模に農工商業のために組織されるべきである。
 僧侶が学校のなかに入り込むことなど、絶対にあってはならない。
 五歳から十五歳の間に、児童はこれらの知識を容易に獲得できるだろう。またこういう教育を成人にまでできるだけ拡大したとしても、そのために必要な支出は三年後にはもう生産の巨大な発展で十分償還しうるであろう。この教育制度に、結社の自由と出版の自由を結合させるならば、十年のうちに搾取はなくなり、人民は自らの主人となるであろう。その時にこそ初めて、人は自治(セルフ・ガヴァメント)について語ることができよう。現在では、自治政府は一つの皮肉である。今、それはどこにも、アメリカ合衆国においても存在してはいない。大衆の教育があまりにも初歩的段階なので、それほどの文明の段階には応じることができないのである。
ブランキ『革命論集』第四章「社会批判」九 演説草稿 p218

……ところで、これら政治的改革のなかで第一の最も重要なものは知識の普及である。彼らは、教育とは自由であると同時にパンでもあり、他方、無知は隷従であると同時に貧困であることを知ってはいない。もし現在二十歳になっている者に、完全な教育を一八五七年から与えはじめていたら、彼はいま惨めな賃労働者として農奴のように働くかわりに、誰とも平等に歩みを進めていたであろう。教育は人間にとってカリフォルニア州を五十あわせたよりも価値があるものだ。
ブランキ『革命論集』第四章「社会批判」九 演説草稿 p220

私と教育

 ひきつづきブランキの『革命論集』を読んでいる。なるほど、Wikipedia:ルイ・オーギュスト・ブランキの格言なるところに「共産主義の実現なしに教育の実現は不可能であり、教育の実現なしに共産主義の実現は不可能である。」という言葉が採用されているように、ブランキは教育熱心な人である。「武装した少数精鋭の秘密結社による権力の奪取と人民武装による独裁」というあたりは、あまり感じられない(もっとも、そういうった面は秘密結社なんだから秘密であって、論集に出てこない、のだろうけれども)。で、「今すぐいきなり社会が変革するなんてことはねえよ。大衆に教育がゆきとどけば、左右の車輪みてえに、科学的に当然の帰結として、共産主義も成り立つんだよ」って具合の話が多い。そうだ、共産主義は科学だ。そういうつもりで読まないと、何が書いてあるかわからなくなる。それはそうと、ともかく教育なんだ。
 ……と、はて、教育。教育ってなんだ。なんだか、俺はよくわからなくなってしまう。なんだ、教育? 自分と教育。もちろん、俺だって教育を受けてきた。家族から教育され、幼稚園で、小学校で、中学、高校、予備校、ちょっぴり大学。はて、しかし、なんだったんだろう? それがぜんぜんわからん。
 なにをわからながっているのか? 俺は、教育を受けたのだろうか? いや、受けたに決まってる。日本語とエロ画像あさりに必要な英語を読めること、日記を書くこと、馬券の皮算用ができること……、教育を受けなければできなかったに決まっている。しかし、そのくせ、自分が教育された、その実感というか、記憶がないのだ。
 なんて傲慢な。いや、違う、そもそも、そういうものなのだろうか。みな、そうなのかもしれない。知らない間に、覚え、使えるようになり、自らの血肉、内臓になる。そんなものなのかもしれない。脚に筋肉がついたからといって、それが何年の何月何日にペダルを漕いだ分の結果だ、などということはわからんのだ。
 が、しかし、どうもその距離感と、あとはもうこれは自覚できる傲慢だけれども、小学校なんて簡単すぎてぜんぜん勉強の場じゃなかったぜ、というような。その幼いころの傲慢さが、なんとも残っている。ああ、でも、中学受験の予備校に通って、「ああ、これが勉強でテストというものか」というような、そういう実感はあったし、それは歯ごたえがあるどころか、「俺、算数無理」みたいな、そんな意識を強めた場でもあった。
 

今の教育

 あれ、いつの間にか、「教育」から「勉強」にすり替わっているな。それも、受験的な勉強、と。それでたとえば、さらに「学問」とか、そんな言葉まであって困ってしまう。わけがわからない。
 だいたい、ブランキが上の演説草稿は1867年、ローザンヌの第二回インターナショナル大会のために用意されたもの。たぶん、当時のフランスの教育と、この現在、俺が受けてきた教育、ほとんどの日本人に用意されている教育というものは大違いだろう。教えられる内容もずっと先に進み、量も増えているに違いない。
 が、かといってそれが「完全でなければならない」教育家といえば、たぶんノーであろう。さらに今どき、「日本語、算数、天文、初歩幾何学、地理、歴史、図画、地質学や物理化学の基礎知識」を十分教えても不十分だということがある。学校で大切なのはコミュニケーション、人間づきあいだったり、あるいは心の教育だとか、道徳だとか、そんな話が出てきたりもする。わけがわからない。

 あと、たとえばこのように、「所得格差が教育格差につながり、それが格差の固定につながる」というような問題。ここでも「教育は大事だ」ということになるけれども、しかし、なんかその、ブランキの言う教育と、ここで言われる教育が一緒なのか違うのか、そのあたりもわからない。
 なお、自分についていえば、それはもう俺は教育を受ける身としてはずいぶんに恵まれていたといえる。家にはいくらでも本はあったし、親にも教養があった。進研ゼミ、塾、予備校、私学一貫校、私立大学、中退、ニート……あー、俺にとって教育ってなんだったんだろ?
 というわけで、なにやら俺は教育について考えると、わけがわからなくなる。故郷の地球がそこに見えているのに、なんらかの理由で衛星軌道から逃れられなくなった宇宙飛行船の中にいる気分だ。ぐるぐる回ってるだけだ。ブランキさんにも聞きたい。いったい、何を、誰が、どんな風に教えれば完全なんですか、カリフォルニア五十個分なんですか、と。
 たとえば、バクーニンさんは『鞭のドイツ帝国と社会革命』でこう言っていたっけ。

 それでは、私はいっさいの権威を排斥するものであろうか? このような考えは、私の本旨では全くない。長靴のことなら、私は長靴屋の権威にまかせよう。家屋、運河、鉄道については、建築家や技師に相談する。こうしたたぐいの専門知識については、それぞれの物知りたちに尋ねもしよう。しかし私は、長靴屋にも建築家にも学者にも、彼らの意見を私に無理じいさせようとはしないのだ。私は遠慮なく思いのまま、しかも彼らの持っている知性、性格、知識にふさわしい尊敬をもって、彼らの言葉に耳を傾けよう。しかし、批判し、検査するという私の持つ犯しえない権利は、自分に保留しているのだ。
 私は、たった一人の専門的権威に意見を求めるだけでは満足すまい。私は、多数の権威の門をたたこう。私はこれらの権威の意見を比較検討し、もっとも正しいと思われたものを選びとるだろう。しかも私は、専門的な問題においても、およそ不可侵の権威といったものを承認しない。したがって、しかじかの個人の誠実や真摯をどんなに尊敬するとしても、私はなにびとに対しても絶対的な信用をおかないのだ。このような信用をいだくことは、私の理性、私の自由、私の仕事の成功にとってもまた、致命的なのだ。それは、私をただちに愚かな奴隷へと転化させ、他人の意志や利益の道具に墮落させてしまうであろう。

 私が専門家の権威の前にぬかずくのは、私自身の理性で納得して、この権威を自分に課したからである。私は、広範囲な人間知識を、その発展のすみずみまで知り尽くすことができないのを知っている。どんなに偉大な知性の持ち主でも、全部を知悉することはできないであろう。したがって、その結果として、科学においても産業においても、分業と協業とが必要になるのだ。ギヴ・アンド・テークというのが人生なのだ。

 ……しかし、これらの学校からは、権威の原理の些細な適用ないし表現さえ、徹底的に除去されるであろう。それらは、もはや学校でなくなるはずだ。それは、生徒も先生もいない民衆のアカデミーとなり、そこで、民衆は、必要と認めるなら無料の教育を自由に受講し、他方、彼らが持っていない知識を彼らに授けるであろう教授たちに対して、民衆自身も、その豊かな経験に基づいて、逆に多くの事がらを教えることになろう。したがって、これは、教育ある青年と人民のあいだの相互教育、両者のあいだの知的友愛の行為であろう。

 ……しかし、これもまたあんまり想像つかんよね。いやはや。

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