天空を行く日本〜『そらのおとしもの』は最初の雁の一羽をしとめた〜

幸運の後ろ髮

 昨今世界を席巻しているという、『そらのおとしもの』第2話「天翔けるロマン」を視聴。幸運の女神には前髪しかないというが、関東圏U局を網羅する私のアパートのケーブルテレビには、前髪のほか、後ろ髮にアホ毛のおまけくらいついてくるのである。そうだ、そもそも『そらおと』の第1話の10分くらいは見ていたが、そこで切ってしまったのだ。
 見ていて、「どうもこういう絵柄は苦手だ」という理由である。どこがどういう風に? と言われても困る。アニメアニメした絵が苦手なのか? とも思うが、たとえば『生徒会の一存』にあまり抵抗はない。このあたりは我ながらよくわからない。まあともかく、切ったアニメの第2話が大好評ということで、私はほぞをかむ思いだったのだ。

人間の本気は伝わる


 さて、テレビの画面で見たエンディングはどうだったか。「岬めぐり」はどうだったか。すばらしいの一言である。人間の魂の本気というものを感じた。こういったものだからこそ、本気だからいいのだ。現代日本アニメ技術の、精神の結晶である。日本文化の結実こそがこれである。私の頭の中から「岬めぐり」が飛び去ることはない。

人間という存在は今日、針の先や釘の頭をこしらえるためにその生涯をおくっている。

 これは、ルイ=オーギュスト・ブランキの『革命論集』におさめられた、「高利」という論文の一節だ。彼のいう「今日」は1860年代の「今日」である。しかし、分業というものは、この今日、よりいっそうはっきりとわれわれの人生を、労働を規定している。その集団作業に、針の先や釘の頭に、人間の魂は宿りうるのだろうか、人間の気は込められるのであろうか。
 その答えは、イエスだ。それを、この「岬めぐり」が証明しているのである。おそらくは、渡り鳥の編隊を研究するため、鳥類学者に弟子入りしたスタッフもいれば、軽飛行機で雁の群れとともに海を渡ったスタッフもいるだろう。太陽光とパンツの陰影を調べんがために、成層圏で散ったスタッフもいたことだろう……。
 ああ、その高貴なる人間の魂、なにごとをかなさんとする人間の持つ原初の衝動、それはたとい分業という形をとっても、やはりほかの人間に伝わりうるのである。それゆえに「岬めぐり」のパンツの群れは、日本人のみならず、世界中のひとびとにある種の衝撃を与えずにはおられなかったと、それは断言できよう。
 そしてまた、アニマが宿るのはアニメのみではない。われわれの、スタッフロールに名が記されることも、誰かの感謝や感想をえられるわえでもない日々の労働も、やはりわれわれが本気であるかぎり、そこに魂が込められるのであると、そう信じていけない理由などないのである。それこそが、「そらのおとしもの」がわれわれに教えてくれたことである。

日本は天空を行くべきである

 さて、この現代において人間と世界はつながっている。「そらのおとしもの」は、あの美しいパンツと同じように世界を駆けめぐる。それ自体が比喩となっている、そのような構造がある。して、あの絵の中でパンツを見上げた人たちはなにを思っただろうか。単純に、人間の愛や平和を感じることができたであろうか?
 その答えは、否といわざるをえない。この世界に、自分の空の上を下着に飛ばれてよろこばない人間がいて、何がおかしいだろうか。むしろ、その方が正常であるといえるかもしれない。しかし、だからといって、空を行くパンツを否定することはできないのである。否定的反応も、また人間の魂を撃った証だからである。
 小異を問えば無限である。その前に、われわれはユニティを目指さねばならぬ。強制的な統一ではない。自然からなる個々人の調和である。そこには魂の連帯が不可欠であり、そこで象られるさまざまの形態、見かけに囚われてはならない。それを解放するように真なる眼で本質を射貫かねばならない。
 その意味において、「そらのおとしもの」は雁の最初の一羽を見事にしとめた。裂帛の気合を内に秘め、明鏡止水の境地から一撃で仕留めた。だからこそ、パンツは世界の空を飛んだのである。飛んで、人々は見上げたのだ。『亡念のザムド』の、『ガンダム00』のエンディングのように、世界各地にそれを映したのだ。
 私はここに、日本の進むべき道を見る。日本は、はるか天空を行くべきなのである。ラピュタのように世界を統べるのか? 否、むしろ世界のひとびとの意識や常識から滑り落ちたところを飛んでいくべきなのである。日本は行くべきである。そして、未来を生きるべきである。私が未来の日本人に残したいのは、ただこのことだけである。

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