なんかありそうなんだが、どうも生態心理学よくわからねえな

おれは去年、「弱いロボット」の研究について読んで、生態心理学というものの存在を知った。

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「弱いロボット」の考え方は非常に面白く、また、そのバックボーンにありそうな生態心理学は面白そうだと感じた。

 

なので、アフォーダンスについての入門書など読んだ。そして、タイトルそのものの『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』を読んだ。

 

 

読んだ……のだけれど、これがよくわからない。知識と知能の問題があるので、読めない本は世の中に山ほどあるわけだが、なんだろうか、よくわからない。

 

よくわからない、のは、「アフォーダンス」というものをうまく掴めていないからだ。うまく、というか、ぜんぜん掴めていないと思う。ピンとこない。そして、掴めていないから、ここに「アフォーダンスとはこれこれこういうものらしいのだが」みたいなことも書けない。そりゃ、なんか見ながらなら書けるが、自然と言葉が出てこない。こういうのを「わかっていない」という。

 

わかっていないながらも、やはり生態心理学にはなにかあるんじゃないのかと思って、エドワード・S・リードの本をもう一冊読んだ。

 

 

 本書のテーマは、われわれがいま心を失いつつある顛末についてである。われわれすべてが発狂していると言いたいのではなく、集団としてのわれわれが手をこまねいて自らの心的資源を腐らせているままにしているのが問題なのだ。周囲の世界を的確に経験する能力、またこの経験を熟慮するために用いる能力が、仕事、教育、日常生活における現今の傾向の犠牲になっているとわたしは言いたい。さらに悪いことに、哲学者や心理学者がわれわれに教え込んだ、心的生活について考えるやり方は、経験の価値をひどく見くびっている。知識人と教育者はそれがさも当然と言わぬばかりに経験を評価するのを拒んできたが、これでは問題を改善としたというより、新たな問題を追加したことでしかない。

 

著者のスタンスは西洋の哲学的伝統に否定的だ。「現実世界から遊離した」とか言ってる。かれらは経験を軽蔑していると。

 

 知覚に対するギブスンの生態学的アプローチ(これは彼の呼び名である)は、西洋が経験を放棄してきた伝統ときっぱり手を切っている。ギブソンにとって、知覚は世界が引き起こすものではなく、観察者が能動的に追い求め達成するものである。おのおのの観察者は、意味ある情報を捜し出すことによって自らの環境を理解しようとする。したがって、あらゆる形の心的原子は――感覚、観念、主観的状態――その多くが知覚過程にとって偶発的部分あるいは無用な部分さえある。知覚過程の有用な局面は、見ること、聞くこと、触れること、精査すること、確かめること――こうした活動の流れからなっている。この流れが意味ある情報をもたらし、価値があり危険でもあるという意味で重要(シグニフィカント)な世界に関するわれわれの経験を形づくるのである。

 

とか、このあたりのことは、『アフォーダンスの心理学』に書いてあったな。思うに、あの本には重要なことが書いてあって、手元に置いておいて、読み返すタイプのものなのだ。いずれなんかピンとくる日がくるかもしれない。わからん。

 

して、『経験のための戦い』は、書かれた時代の「現代」に対しても批判的だ。だが、書かれたのが時代が変わるちょっと前なんだ。1996年。まだネットが星を覆っていないころだ。「情報スーパーハイウェイ構想」が出てきたころだ。それに対しても否定的だが、やはり機械化された労働やテレビというメディアに批判の中心が向けられている。

 

それを読むと、なにかこう、ああ、なんか断絶というか、惜しいなと思うのだ。はたして、エドワード・S・リードはさらに情報化が進んだ「今」をどう解釈したのだろうか。やはり経験のための戦いをしたのだろうか、と思わずにはいられない。

 

というのも、リードさんは1997年に42歳の若さで病死したのである。もっとわかりやすい生態心理学の本を書いてくれたかもしれないし、生態心理学というものを発展させていったかもしれない。わからん。わからんが、翻訳者などがその無念を語っている。

 

 

……というわけで、あと一冊、『魂から心へ 心理学の誕生』でも読んで、いったん生態心理学から離れよう。というか、まずそもそも生態学とかわからんといかんかもしれん。

 

どうも文系の人間なので、アフォーダンスについてミミズのあれとか、サンゴ礁のあれとか、そういう話が出てくると少し興味がそれるところがある。アフォーダンスの始祖であるJ・J・ギブスンの知覚、視覚の本などまるで読めない。まあ、人間には向き不向きがある。仕方がない。ただ、なんでどうにも向いていないのに、「生態心理学にはなんかありそうだな」と思えたのか、そのあたりもわからない。