他人が見ている青い空は、実は自分にとっては真っ赤なのかもしれない。ただ、それはどうやっても確かめられない……というようなことは、誰もが一度は考えるはずだ。たぶん。そればっかりは、どうやっても。
で、先日図書館でこんな本を見かけた。
脳科学や心理学がいくら進歩したといっても、「視覚のクオリア」という用語が示すように、「私たちはいったい何を見ているのか」を記述しようとすれば、たちまち言葉に詰まり、立ち往生してしまうだろう。本書は、才気あふれる進化心理学者が、「赤を見る」というただひとつの経験にしぼり、この難題に挑んだ野心作である。「赤を見ている心」をどう記述すればよいのか。あなたの見ている赤と私の見ている赤は同じものか。赤の感覚と、感情や知覚との関係とは?相手と分かりあえる共感は最近注目のミラーニューロンの仕事?さらには、感覚と心の進化の物語をたどり、「意識の迷宮」へと問いを進めていく。問いを詰めていった先に著者が見出した意識の存在理由をめぐる結論は、「コロンブスの卵」的なものであった。意識は、この人生を生きることが大切で有意義なものであると思わせるべく存在し(だからこそ「他者の自己」を尊重する気持ちも生じ)、そのために不可解な性質を持たねばならなかった、と。スリリングで示唆に富む心の哲学・心理学の一冊。
などと紹介文があった。これは、おれの、そしてみんなの何十年も抱いてきた疑問に応えてくれるのでは? と思い手に取った。
が、おれには難しすぎるのでようわからんかった。
感覚とはなにか、そして、意識とは何か。意識はなんのために存在するのか。そういう方向へ話は進んでいく。そして、進化論、進化心理学が顔を出してくる。
この段階(引用者注:自分の反応をモニターすることで、体の表面を見舞う刺激の表象を形作るが、その体の外の世界については知りもしない段階……?)では、例の生き物は依然として、刺激にはあからさまな身体活動で反応している。そして、こうした感覚的な反応は生物学的に適応性を保っている。しかし、この生き物が進化を続け、直近の環境からの独立性を高めるにつれ、体の表面への刺激そのものに直接反応し続けることから得られる利益は、おそらくどんどん減っていくだろう。
うん、なんかアメーバみたいなの想像して。
外の世界は外の世界であり、そこで何が起きているのか知るのは、たしかに役に立つ。しかし、この生き物にとって、一番大切なのは体の安泰、私は自分でなくなればだれでもなくなるることだ。そして、「自分に何が起きているか」については、自分自身に反応を求める指令信号をモニターすることによって知ってきたのだから、こうした反応をすっかりやめてしまうわけにいかないのは、明らかだろう。
この自他の境界については、たとえば多田富雄の本とか読めばいいかもしれない。違うかもしれない。
そんでもって、次のところが「へえ」と思った。
したがって、この生き物は、もし身体的な行動として実行されたら、体の適切な箇所で適切な反応を引き起こすであろうような指令を、最低限でも発し続けなければならない。しかし、あからさまな行動はもう望まねれないのだから、こうした指令はバーチャルなもの、本来の意図的・指示的な属性を保持しつつも、じつはまったく実効を持たぬような指令もどきであったほうが、都合が良い。
けっきょく、長い進化の歴史の中で、ゆっくりと、しかし驚くべき変化が起きた。何が起きたかと言えば、感覚的な活動がまるごと「潜在化」(プライベタイズ)されたのだ。感覚的な反応を求める指令信号が、体表に到る前に短絡し、刺激を受けた末端の部位まではるばる届く代わりに、今や、感覚の入力経路に沿って内へ内へと到達距離を縮め、ついにはこのプロセス全体が外の世界から遮断され、脳内の内部ループとなった。
この脳内ループは哺乳類において大脳皮質が誕生するまで完成しなかったとかなんとか。そうか、脳か。脳内のループで。
ふーん、よくわからんが、なにかこう、脳の病気(躁うつ病/双極性障害)を患うものとして、脳の、こう、脳のなにか。たとえば統合失調症などはもっとそのなにかに接近するような気がするが、まあわからん。病気については盲視についてなど触れられているが、精神病については述べられていなかった。
そんでもって、話はミラーニューロンの話とかを経由して、時間の厚みによる意識とかいう話になって、結論に進む。
人類の進化の比較的遅い段階で、意識の厚みのある瞬間が自己を固定する錨としてすでにしっかり確立された後、変わり種の遺伝子が現れ、その影響で意識ある自己にひとひねりが加わり、人間の心が自らの性質を誇大視するようになったとしたら、どうだろう。
心と体の二元性を信じてしまうのは、「偶然」ではない。なにかによるトリックだ。そして、そのトリックは仕組まれたものかもしれない。
世界のこの一片が、自らにはこの現実世界を超越した特徴があるという印象を、主体たる人間に与えるよう、絶妙に再編されていたとしたらどうだろう。そして、そうした印象を与えられた一人ひとりの人間、つまり錯覚に陥った人間が、より長く、より実り多い人生を送るとしたら。
それは、なぜ意識は重要なのか、という問いに対する答えになる。
意識が重要なのは、重要であることがその機能だからだ。意識は、追い求めるに値する人生を持った自己を、人間の内に作り出すように設計されているのだ。
なにやらトートロジーのようにも感じるが、進化してきて人間いうものが意識というものを持っているのは事実だ。そうでないものより、そうであったものが残った。そして、意識というものが……重要なんだなあ。
というか、「赤を見る」というところから、その意識とはなんぞ、となって、結局はこういうところに行き着くわけで、いや、ちょっとついていけないです、というところはあった。
が、まあ、そんなこともあっていいだろう。赤を見るということから生物の歴史、人間の心理の進化に到ることもあるだろう。それがたぶん人間が偉そうな顔をして地球を闊歩している理由なのだろう。たぶん。以上。