寄稿いたしました。
シャーデンフロイデ……他人を引きずり下ろす快感について。こういう感情はおれにあります。あまり表に出してはいないつもりだけれど、まあいろいろなところであらわになっていることだろう。夕刊タブロイドの世界。週刊誌の世界。知らない人、受け入れがたい人には一生わからない世界。そういうものがあって、そういうものを必要とする人がいて、そして世界は運行されていく。云々。
それはそうとして、まあしかし、シャーデンフロイデという感情が、自然選択、淘汰されてきた人間の心理において残っている、なにかそれを持つことによって生き残ってきた理由がある。そこのところが興味深い。はたしてオキシトシンが影響しているのかどうかよくわからないが、脳科学的に、なにか生理学っぽいところで実証されているならば、それはたいしたことだ。
となると、「人間性」、人間本来が持っている性質というものを全肯定するわけにもいかねえよな。シャーデンフロイデと、たとえばネットが結びついて、誹謗中傷の嵐、大炎上みたいなことにもなる。ときには、それがまったく根拠のない誤りであっても、人は正義感で暴走する。これはやばい。
だったら、AIが正しいのか、みたいな話になる。機械が、GoogleのLaMDAに意識があるのか、それはわからん。そもそも人間の意識というものがなにかというのもよくわからんが。
まあ、それにしても、古典的ともいえるSFの題材みたいになるが、愚かな人間性を切り捨てた人工知能の判断が正しいのか、それとも……という話。だいたい、「愚かさも含めて人間なんだ!」となって、主人公(誰?)が勝つ。人間が勝つ。
それが、正しいのかどうか、おれにはわからん。おれは人間の愚かさを、至らなさを、弱さを愛するし、人間同士がわかりあえるのは「そこ」にあると信じているのだが、それが正解かといわれると、ようわからん。ひょっとしたら、人工知能が突き詰める強い判断が人間にとっての究極の倫理を達成させるのかもしれない。
けど、そのとき切り捨てられるのは、邪悪で弱く、愚かな自分なので、「やっぱり人間性だよねー」とか言っていたい。そういうところがある。
今後の世界は、強くほころびのない倫理と、邪悪で弱い「人間性」とのせめぎあいになるのではないか。ただし、たかだか人間が言う強くほころびのない倫理というものは、あまり信じられない。人間が対峙するのはあくまで人間以外のものであるべきだと思うのだ。それが神と呼ばれようが、AIと呼ばれようが、そうなのだ。
こっちもいずれ読むかもしれないです。