興味がないことに言及すること、あるいはしないことについて

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現代のインターネット世界は、言及の世界だと言っていいかもしれない。違うかもしれない。ごく一部の話かもしれない。だが、TwitterでもはてなブックマークでもYahoo!ニュースのコメント欄でもいいが、ある話題についていっちょかみしやすい情況にあるといってもいいだろう。すくなくとも、おれはいっちょかみするのが嫌いではない。ずっとはてなブックマークも使い続けている。

使い続けていくなかで、自分なりのルール、ルールというかマナー、規範、規律、なんでもいいが、そういうものもできてくる。細く、長く付き合うための方策である。「場」というものがあれば、それを乱さないようなふるまいについての、自分なりの考えかただ。無論、おれが他のユーザーから見て「ろくでもない野郎だ」と思われているかもしれない。が、そんなことは気にしない。気にしていてはやってられない。ひたすらに、自分自身について「やってられない」にならないための所作だ。

その一つが「興味がないことに首を突っ込まない」だ。ろくに興味もなく、また知識もなく、あるいは今後知識を得ていこうという気にもならないことについて、肯定か否定化について軽々しく乗らないこと、また、興味がないことについて「おれは興味がない」という物言いをできるだけしない、ということだ。

興味のないものについては沈黙すること、これである。

もちろん、おれは愚かな人間なので、いくらでも反証が出てくることと思う。思うが、一応、それなり、おれはそういう風に意識しているつもりだ。ときにはよくわかっていないのに、AだかBだかに乗って発言してしまうこともあるだろう。でも、なにか書いたあと、あとワンクリックで投稿完了というところで踏みとどまることも少なくない。「よく考えろ、おれにはこれがよくわかっていない。そのうえ、それほど興味も熱意もない。言及する必要などない」と。

また、興味がないことについて、ことさら「興味がない」と意思表明することも不毛のように思える。それによって議論が深まることはありえないだろうし、情熱を持って発言している人が冷静になることもないだろう。おれには興味がないのだから、多少思うところがあったとしても、それについては沈黙しておいたほうがいいだろう、と。

……と、述べてしまったことで、おれはおれが言及しないありとあらゆる事柄について「興味がない」という意思表示をしてしまったことにはならないか。「興味がない」、「どうでもいい」、「理解を深める気もない」。これは0であろうか? 否、場合によっては現状肯定にもなりうる。あるいはおれの属性、日本人であるとか、都会よりの住人であるとか、性について不都合を感じていない男性であるとか、そういった事柄についての無条件の肯定、あるいは白紙委任。そうなってしまわないだろうか。

「そうなってしまわないだろうか」とおれは思う。「そうである」と言い切ってしまうと、あまりにもがんじがらめになって、息をするのも困難だ。そもそも、ありとあらゆる事柄について十分な知識を得て、責任をもって言及することはひとりの人間にとって不可能だ。

だからといって、「そうではない」と言い切るのも何か違うような気がする。この世はありとあらゆる事柄について、常に判断を迫られているともいえるし、自分の属性に関わる事柄については「まったく無関係」とするのは、ある種の不誠実さがともなうといってもいい。もちろん、「今季のフィラデルフィア・イーグルスについてどう考えるか?」と問われても「知らんがな」と答えてもいいだろう。おれも野球知らずの人に「カープは今度のドラフトで小園海斗くんを狙うべきだろうか?」などと問わない。が、これがたとえば「安倍政権をどう考えるか?」となると、日本国の選挙権を持つ人間として、なにかしら答えるべきであるかもしれない。その他、さまざまな社会問題についても、だ。

とはいえ、おれにはおれの脳みその限度、興味の限度というものがある。というわけで、「そうなってしまわないだろうか」というところにとどめておくわけだ。それを不誠実だと言われれば、もう不誠実でもいい。言及しないことが不誠実だと言われても構わない。

もちろん、不誠実な言及だって山ほどしてきたし、これからもするだろう。それについては、「勉強させていただきました」と思うか、「チッ、反省してまーす」と思うか、「バーカ、バーカ」と思うかはわからん。だが、言及しないことについて責められても、「そこまではご勘弁」ていどにしか思わない。そういうことにする。

というか、そうでなけりゃ、さすがに生きていけないでしょ。いや、なかにはあらゆる事柄についてすぐさま態度を表明できる人間というのもいるかもしれない。ひょっとしたら、それこそ善知識というものかもしれない。だが、自分で考えることなしに、盲目の信心や支持する思想に乗っかっているだけかもしれない。おそらく、人間、後者のほうが多いだろう。それはそれとして、また一つの処世というものかもしれない。ただ、今のところおれにはそれが見つかっていない。だから、不誠実のそしりを受けようが、意識的に言及しないということについて一つの価値を見出したいのだ。

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