不確実さを受け入れる 「ネガティブ・ケイパビリティ」について

 

ネガティブ・ケイパビリティ  答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)
 

 

図書館の本棚、心理学系のところ、帚木蓬生の本が目に入る。以前、病的ギャンブリング(ギャンブル依存症)についての本を読んだことがある。その本のタイトルは『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える能力』。能力だのなんだの、自己啓発か? マインドフルネスか? などと思い、ページをめくってみる。すると、冒頭、こんな一文から始まる。

 ネガティブ・ケイパビリティ(negative capabiity 負の能力もしくは陰性能力)とは、「どうにも答えが出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」を指します。

 あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味します。

おれは思わずうなった。「あるいは」以降で語られている部分についてである。こういっちゃなんだが、「おれはこれを持っている」と思ってしまったのだ。おれがこのように前向きになることは珍しい。いや、「耐える能力」があるというと嘘であって、何事かに耐えられなくなっておれは精神疾患を発症したのだし、それは今のところ機序も不明で完治もないものだが(知ってますか、双極性障害、ようするに躁うつ病ですらそんなものなのですよ)、なんらかの判断を保留して放っておくようにすること、それで良しとすることは、おれの世界に対する一つの態度であって、半ば意識して、あるいは無意識に、判断しない、理解しないということを心がけているといっていい。

証拠を見せようか。おれは五年前にこんなことを書いた。

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 1か0かというとき1か0かという二者択一ということになるのだが、そのとき「か」はどこに行ってしまうのかという話になる。

 しかし「か」のみではあることならぬものであるようだから「1か0」というまとまりでもって二者択一に答えるということになるのだが、それでは答えにならぬということにもなる。

 さすれば白紙回答なり保留という態度ということにもなろうが、「1即0」といい「0即1」などと禅問答めいた意味か無意味かをにおわせることもできるかもしれん。

 しかし、「1は0」、「0は1」などと口でいくら言ったところでその「1は0」、「0は1」に心身のすべてを投じることなく嘯いたくらいではむなしいことに違いない。

 ならば、そういった境涯にあらないならあらないで、たんに保留すること、回答を拒否することはいかんのかということになると、二者択一必須のときが今なのかどうかという判断を要することにもなる。しかし、その判断というものも畢竟ずるに二つに断じて判ずる行為がゆえに、「1か0か」の分別から逃れえない。

 やはり最初に出て行った「か」が問題だ。「か」のやつが、どこか知らない街の駅の喫煙所あたりで、つまらなそうに煙草をふかしているのを見つける必要があるかもしれない。おい、「か」よ、とりあえず戻ってくれないか、という説得をする必要もある。

……なにを言ってるかよくわからない?

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保留、保留、馬鹿は半永久的に保留、銃で脅されたら持ち主の顔色見てスイッチ押す。そんだけ。

ほら、こういう態度。単なる優柔不断? それとも馬鹿?

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だいたいこう、賢い人間ってのは、スパッと見えてて、サクっと答えられる。道があって、迷いがない。俺には無理だ。この賢くなさで、どっから来てどこに行くのかわからん。いや、行きようがない、生きようがない。とはいえ、ますます賢くなりたいと思わなくもないので、50年くらい待ってくれという気持ちはある。態度の保留が一つの意思表明であって、行動であって、それは不正義だ、悪だと言われようが、保留できるかぎりにおいて、ちょっと待っててくれという。馬鹿でハートがないんだ、勘弁してくれ。もちろん、臆病者で、勇気もないので、脅されたら鉄砲担いでどっかに行くことにもなるだろう、案外平気で人を殺せるような気もする。とはいえ、だいたい小便ちびって逃げ出したところを督戦隊に撃たれるか、あるいは日和ったところを粛清されて、印旛沼に埋められるのが関の山だろう。

こんな感じ。わかるかな、わかんねぇかな。

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 うーむ、話を俺に逸らすと、確たる型も持たずふらふらと仏教をアナーキズムを戦後思想を戦前思想をほっつき歩いて、しょっちゅう「考えがまとまるまで五十六億七千万年待ってくれ」などと言う俺(検索欄に「56億」などと入れたまえ)など、なにやらプチ大正教養主義みたいじゃん。やったー。いや、西田幾多郎とかぜんぜん読めねーからダメだー!

 

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そしてもうひとつは極大のこと。はるかかなたの究極のこと。たとえば、56億7千万年後くらいには、人間が客観的制約からぬけ出て、主観的自然法爾の世界に入ってればいいな、めいめいが勝手に踊ってそれが調和してればいいな、と、そんなところに羅針盤を向けること。

 うん、このニーメラーへのツッコミいいね(ドイツ共産党ナチスと一緒になって社会民主党を攻撃していたかもしれないということ)。関係ねえか。

最近だとこんなの?

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おれは社会運動の組織に属したこともなければ、属した人間に接したこともないが、これはそうなのだろうか。きっとそうに違いない、と決め込んでもいいような気がするが、見てもないのに言う資格はない。ただ、「立ち止まって考える」ことが、どうも欠けていると思えることはある。他の国のことは知らないが、ネットなんかでいろいろ見ていてそう思うことはある。なにかこう、あるテーマだかイシューについて、「お前はどう考える? どちらの派閥だ?」と、常に即断即決を迫られているような気になることが多い。

そこでおれのようなぼんくらが「ちょっとわからんのでしばらく考えさせてください」といえば、「その日和見的な態度は現状支持にすぎない!」とか「曖昧な態度をとってサヨクなのを隠してるんだろう!」とかいろいろな方向から石を投げられるようなイメージ。ジジェクだったか、「即断即決を迫られたら、まずその問いから疑ってかかれ」みたいなことを言ってたような気もするんだがな。

 まあこんなところでいいか。というわけで、おれにはネガティブ・ケイパビリティ的な属性があるように思えてならない。冒頭の数行で、そう思ってしまった。

以後、本書は「ネガティブ・ケイパビリティ」という一語を発明し、たった一度弟への手紙の中で用いた詩人ジョン・キーツの話、その「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を170年後(!)に発見した精神科医のウィルフレッド・R・ビオンの話とつづく。正直、サラーッと読み飛ばしてもいいかもしれない。

第三章になって、「分かりたがる脳」となって歴史の話から次に飛ぶ。

 ネガティブ・ケイパビリティを培うのは、「記憶もなく、理解もなく、欲望もない」状態だという、ビオンの断言は衝撃を与えます。

 なぜなら、幼い頃から私たちが受ける教育は、記憶と理解、そしてこうなりたい、こうありたいという欲望をかきたてる路線を、ひた走りしているからです。

もうまるで禅定じゃあないですか。でも、おれは人生のかなり早い段階から記憶も理解も、そして欲望すら諦めきった人間であって、ネガティブ・ケイパビリティを培うには十分だったと言えるんじゃないでしょうか。そして、おれはこれこれこのようになりました、と。

つーわけで、おれにとってこの本は冒頭の数行がほとんどであって、それはキーツがシェイクスピアの中に見出したものであろうがどうであろうがどうでもよく、ますますおれは大手を振って「その答えは五十六億七千万年後まで待ってくれ」と言うようになるだろう。双極性の真ん中に立ったふりをして、中道みたいな顔をすることだろう。

 

……して、本題とは逸れるが、本書から最後にこんなことをメモしておこう。

 精神医学の分野でも、向精神薬の新薬とプラセボの比較は盛んに行われています。どの治験を見ても、プラセボはよくやっているな、というのが正直な感想です。

例えば、代表的な抗精神病薬であるオランザピンとプラセボを、うつ病患者に六週間投与した治験があります。症状改善で有意差が出たのは「内的緊張」「不眠」「食思不振」「悲観的思考」の四項目で、「外見上の悲しみ」「悲観的な発言」「集中力低下」「全身倦怠感」「感情喪失」「自殺念慮」の六項では、有意差は出ていません。

 えー。おれの信頼するオランザピンが……。と言いたいところだが、心配は無用である。

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むろん、今後さらに医学が進むことによって、オランザピンなんかプラシーボ程度だということが明らかになるかもしれないが、今のところ、おれはこれらによってマシなコンディションを保っていると信じている。そして、どこかで疑っている。

どこかで疑っているから、そんなこと言われても安心なのである。見よ、これがネガティブ・ケイパビリティだ!(たぶん)

 

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ウィキペディアにも項目あったね。

ネガティブ・ケイパビリティ - Wikipedia

おれはなにやら仏教や禅なんかと比較してみたくなるが、そこまでの知恵と発想はない。