野太い人権、そして反緊縮―ブレイディみかこ『THIS IS JAPAN 英国保育士が見た日本』を読む

 

 確かにいまは英国でもこの層の人々はダサい社会悪の根源と見なされ、昔のように「ワーキング・クラス・ヒーロー」ともてはやされることはない。が、彼らはけっしてひるまない。ブロークン・ブリテン上等、と言わんばかりのやけくそのパワーで突き進むので、この先どんな大変なことになっても、とりあえずこの人たちは死なないだろうと思わされてしまう。

 翻ってわが祖国である。

 そこで暮らしている庶民には、ブロークン・ジャパン上等の気構えはあるだろうか。それどころか、ひょっとするとまだ沈んでいる自覚さえないのではないだろうか。

おれには日本で暮らしている庶民のことはわからない。なぜならば人間関係というものがほとんどないので、他人のことはわからないからである。

一方で、自分のことならばいくらかわかる。おれは沈んだ家の沈んだ人間である。おれの祖父は京都大学で化学の博士号を取ったそこそこの金持ちだったし、父は早稲田大学政経学部を出たそこそこの零細企業経営者だった。ところがその下の代である。おれも弟も中高一貫の私学を出ながら結局は大学を中退し、おれは食うや食わずの零細企業の社畜、弟はよくわからないがずっとニートをしている。一家は離散し、親戚づきあいもない。完全に沈みきっている。おれの明日は歩いて十五分くらいの寿町にあるのかもしれない。

ブロークン・ジャパン、上等もクソもない。もうおれは疲弊しきっているし、なにごとも考えたくない。希望は戦争という気もするし、そんなのも面倒だという気もしている。ある種、安楽の絶望の中にあって、せめて死ぬ日を自分で選べたらいいと思うくらいのことである。それがこの国の、誰ともつるむことのない、孤独のワーキング・クラス、アンダー・クラスのおれであって、日々ひるみつづけ、なにか些細なことで死ぬのだろうと思う。おれはもう疲れてしまっている。

して、結局のところ金である。金の問題がすべてだ。おれは双極性障害という病を患っているが、月に一度の精神科医との会話も「仕事の調子はどうですか?」、「相変わらず低空飛行です」、「宝くじが当たればいいんだけどね」、「そうですね」だ。

おれ自身は向上心というものが欠如した存在であって、実入りの良い会社に転職しようとか、資格を取ってどうとかしようとかまったく思わない。ただ、もしもこの国の景気が良くなれば、「低空飛行」の高度も少しは上がってくれるのではないかと思う。経済が良くなれば、自死や路上や刑務所に落ちるまでの時間が稼げるかもしれない。問題は金なんだ。

しかし、私には日本の左派が経済問題を嫌がるのは、「ダサい」というイメージだけが理由ではないように思えた。何かこう、日本の左派には「結局は何でも金の話か」と経済を劣ったもののように見なす傾向がある。反戦や人権や環境問題は左派が語るに足る高尚なテーマなのに、経済はどこか汚れたサブジェクトでもあるかのように扱われてきた。左派はもっと意味のある人道的なことを語るべきで、金の問題は自民党がやること。みたいな偏見こそが、野党が政権を取っても経済を回せず短命に終わり、結局は与党がいつも同じという政治状況をつくりだしてきたのではないだろうか。

野田首相に終わったかつての民主党の経済政策がどうだったかよく覚えていない。というか、おれはマクロ経済などというものに疎いので、覚えようがない。ひょっとすると、このような面があるのかもしれない。そんな風には思う。そして、「本来は左派がやるべき経済政策を安倍政権がやっているのだ」とかいう意見を目にすると、そんなもんかな、などと思う。

 つまり、大きなアイディアや理念を掲げて「社会を変えよう」と叫ぶのもいいが、実際に地べたで働いている人々のアイディアや経験を取り込んで政権運営に活かし、少しずつ社会を変えているのは保守党のように見えるが、そこらへんはどのようになってるんだい、とマルガンは言っているのだ。

 これはわたしが日本のNPOの方々や、社会活動家の方々と会って聞いたことにも見事に共振する。「日本では、草の根に強いのは自民党」「実際に不動産を持って地域に根を張って活動しているのは、日本の場合は左派ではなく保守系団体」みたいな言葉を幾度となく聞いたからだ。

しかしまあ、この本が二年くらい前。そして今。なんかこうその自民党というものももうぼろぼろになっていて(小泉純一郎がぶっ壊したのかしらんが)、官僚組織というものも死に体で、だからといって左派や野党が頼りになるという印象もなく、とことん国全体が沈んでいるというイメージしかない。上のような、ちょっとティピカルですらある「日本の左派批判」という段階は、とうに過ぎ去ってしまっているような気さえするのだ。

「なぜ運動体同士が学び合わないのかというのは……」といって中村さんはしばし沈黙した。

「それはどうも日本の運動の特徴のように見えますけど」

とわたしが言うと、意を決したように中村さんが言う。

「実は右も左も、地域社会も、上意下達がはびこってるからだと思うんです。それと、どういう考え方をしてもいいんですけど、はたと立ち止まって考える力がなくなっているというか……。私は学者でも何でもないですから、まったく直感でものを言ってるんですけど」

「中村さん、それはわたしも同じです。まったく同じです」

「考える、学び合う、という習慣が、実は運動体のなかにない。というところで共通しているんじゃないかと」

「……」

「私はもともと新左翼系の活動家ですから、もう辟易しているわけです。ああいう、ちょっとした違いで喧嘩して……。左派もそうとう上意下達ですから、私はそういうのが肌に合わない。だから政治イデオロギーとかそういうので一緒にやるんじゃなくて、それぞれ違いがあるなかで共通点を見つけて、「いま生存すること」と「いま働くこと」、そこで繋がっていける方法を模索する。私にはもうそれしかないですけどね」

おれは社会運動の組織に属したこともなければ、属した人間に接したこともないが、これはそうなのだろうか。きっとそうに違いない、と決め込んでもいいような気がするが、見てもないのに言う資格はない。ただ、「立ち止まって考える」ことが、どうも欠けていると思えることはある。他の国のことは知らないが、ネットなんかでいろいろ見ていてそう思うことはある。なにかこう、あるテーマだかイシューについて、「お前はどう考える? どちらの派閥だ?」と、常に即断即決を迫られているような気になることが多い。

そこでおれのようなぼんくらが「ちょっとわからんのでしばらく考えさせてください」といえば、「その日和見的な態度は現状支持にすぎない!」とか「曖昧な態度をとってサヨクなのを隠してるんだろう!」とかいろいろな方向から石を投げられるようなイメージ。ジジェクだったか、「即断即決を迫られたら、まずその問いから疑ってかかれ」みたいなことを言ってたような気もするんだがな。「もうこの国には立ち止まって考える余裕などないのだ」とか言われても、「はあ、そうですか」としか言えんし。

目下のところでは、安倍政権の支持・不支持……というか、安倍政権に関しては、国家根幹をないがしろにするような公文書の問題などから不支持なのだし、それ以前からそういう投票行動をしてきたわけだが、「アベノミクスによる経済効果はどうなのだ?」と言われると「むぐ」となってしまうのである。「ちょっとわからんので」と。

著者のブレイディみかこは日本のどっかの省庁のサイトを見て、「人権への取り組み」に「貧困問題」がなかったことに衝撃を受けたらしいが、ともかく貧困には金である。やはり金の問題に戻ってくる。そこが「ちょっとわからん」ところなのである。

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この記事などはとくにイデオロギーに寄ったものではないのだろうとおれは思うが(違うと言って石を投げられるかもしれないが)、ともかく安倍の路線でないと株価が下がるという。それって景気が悪くなることだし、低空飛行のおれの赤とんぼもついに墜落ということになるかもしれない。それは困る。

が、しかし、なんで安倍だけなのか? というのがよくわからんのである。安倍内閣が退陣したところで、いきなり野党が政権につくわけでもなく、自民党の誰かが後を継ぐわけだが、それでも緊縮路線になるという。そして、もし野党になっても緊縮路線になるという。なぜ、自民党を見回しても、野党を見回しても、財政健全化よりも目先の経済、反緊縮という勢力がいないのか(いや、政治家個人単位ではいるとは思うけど党なりなんなりのトップには立ってないよね)。日本の景気によって左右されるくらい頼りなく生きているおれには、そこんところようわからんのだ。

日本の社会運動が「原発」「反戦」「差別」のイシューに向かいがちで経済問題をスルーするのと同じように、人権教育から貧困問題が抜け落ちているのではないだろうか。まるでヒューマン・ライツという崇高な概念と汚らわしい金の話を混ぜるなと言わんばかりである。が、人権は神棚に置いて拝むものではない。もっと野太いものだ。

そういうわけで、おれの受けてきた教育……少なくとも小学校までに受けてきた教育の中に金の話はほとんどなかったな、と思わざるを得ない。私立の中学、高校は「おまえらとおもかく親がカネだしてわざわざこんなところ来ている以上、いい大学へ行け、そして、いい企業に就職していい生活を送れ」という単純なものだったが、そちらの方がよほど筋が通っているように思える。とはいえ、やはり金の話、生活者としての金の話が抜け落ちていたのは一緒という気がする。

そう、たとえば、「もしお前が首都圏あたりで賃貸物件を借りて独り暮らしする場合、これこれこういう費用がかかって、そのためにはこれこれこのくらい稼がねばならない」という、具体的な教育、こういものが欠けているように感じる。投資する場合には、このくらいのリターンには、このくらいのリスクがある、といったおおよその基本も教わらない。いや、現行の小中校がどうかは知らないけどさ。

でも、そこんところで、なんかこう、金の話から遠ざけられ、一方で、社会に出れば金に直面し……いい大学を出て大きな会社に入れた人には不必要な話なのかもしれないが……、それで自分の生活を維持しなくてはならない。もしも生きたいのなら。

 実際、日本に行くまでわたしは、英国やスペインの若者や失業者たちが「新自由主義と緊縮財政の犠牲になっているのは自分たちなのだ」と立ち上がる姿を見ていたので、どうして日本でも同じことが起きないのか、と思っていたのである。しかし、もやいで困窮者の若い人々を見ていると、彼らにそれを望むのは酷な気がしてきた。

 日本の貧困者があんな風に、もはや一人前の人間ではなくなったかのように力なくぽっきりと折れてしまうのは、日本人の尊厳が、つまるところ「アフォードできること(支払い能力があること)」だからではないか。それは結局、欧州のように、「人間はみな生まれながらにして等しく厳かなものを持っており、それを冒されない権利を持っている」というヒューマニティの形を取ることはなかったのだ。「どんな人間も尊厳を(神から)与えらている」というキリスト教的レトリックは日本人にはわかりづらい。

 けれどもどんな人間も狂わずに生きるにはギリギリのところで自尊心がいる。自分もほかの人間と同じ人間なのだ。なぜならその最低限のスタンダードを満たしているから、と信じられなければ人は壊れる。

おれはもう心がとうの昔に折れて、ずったらずったら社会の下の方を這いずっている、大脳の壊れたメンヘルだ。おれに尊厳というものを見出すのは難しい。はてなにも多いであろう上流階級(おれのなかでは結婚して、子供がいる、カーを所持してる、ボーナスというものがある、あたりです)にはこのあたりわからんだろうとも思う。思うが、もう拳を振り上げようにも折れているからだらんとするだけ。添え木を当てる気にもならん。そのあたり、人権意識とやらがしっかりと根づいていれば、モルゲッソヨのごとく立ち上がり、反り返えることもできたのかもしれない。

なぜ、日本はこうなったのか。他国のことはしらん。所詮は小国が(というほど小さくないよな、というのがおれの持論でもあるけど。ああ、でも平野は狭いか、とも思うけど)、その時々の時流に乗って、ちょっと大きな顔ができただけで、内面にあたる部分を育てることができなかったのか、とか。樹木だって、早く大きく育つものは、枝や幹が折れやすいものだ。日本は折れてしまった。あるいは、陽樹が淘汰されて陰樹が残るかのように。

もっとしなやかに強い人々が作り出す、ダイナミックな国にはなれなかったのだろうか、などとも思う。この本には伊藤野枝の写真と、頭山満の写真が載っている。遠い昔のアナーキストや右翼の持っていたスケール。そういった野太く育っていくかもしれないものを、なんらかの特性や事情、あるいは偶然で伐り倒してきてしまったのが現状かもしれない。まったく、嘆くよりほかはないではないか。そういっておれは抗精神病薬をつまみに酒を飲む。おい、そこの若いの、おれみたいにはなるなよ。もし、算数ができるなら、原子力発電の分野に進めよ。廃炉のための人材は、お前が死ぬまで必要とされるだろうから……。そんでもっておれは、緊縮財政と反緊縮、それと新自由主義経済の関係について考える。が、やっぱりわからんのだろう。龍樹の「中論」くらいわからん。だから、五十六億七千万年くらいかけて考えさせてくれや。

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人権……じゃなくて民権三兄弟が一人。

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北一輝も殺されたし。

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金子文子も朴烈も(映画化されたんだってな)。

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大杉栄も。