無意識を利用されると不愉快になるという自意識

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寄稿いたしました。「ナッジ」についてです。

とりあえず読んでください。

読んでね。

読めー。

 

はい、読んだー。

 

で、「ナッジ」とはなにか?

たとえばこういうこと。

たとえばタバコのパッケージに「生々しい」写真を印刷することを義務付けて喫煙率を減らす。

大学のプリンターの初期設定を「両面印刷」にして紙の消費量を減らす。

空港の男子用小便器に蝿の絵を印刷して、飛び散る汚れを減らす(これは人類のだいたい半分にしかわからないのではないかと思うが)……。

そんな仕掛けである。GPSによる経路検索、食品のカロリー表示、テレビのリモコンについたオンライン配信メディアのボタン……。

こういう人の行動に影響する「ひと押し」のこと。そして、それを主に政策に取り入れること。これである。

 

日本とて例外ではない。

『ナッジとEBPM ~環境省ナッジ事業を題材とした実践から好循環へ~』

https://www.env.go.jp/content/900447772.pdf

 

EBPMとは「エビデンスに基づく政策立案(Evidence-based Policymaking)」。つまりもうナッジなるものはもうエビデンスとも呼べるくらいのあれだってことだ。

 

なんとなく「ナッジ嫌だな」と思う心理を持つものにとっては、「警戒!」という気持ちにすらなる。なぜならば、あまり政府も役人も信用していないからである。国民の行動様式にそれと知らせずに都合のいい介入をしてきそう、という思いがあるからである。

 

もちろん、推進派は、透明性と倫理性が確保されていれば、公共福祉、環境問題などの正当な目的を持ったナッジをどんどん活用すべきだ、ということになる。

 

しかしまあ、なんだね、政府とか役人、日本政府とか日本の役人、そういった具体的な対象抜きにしても、なんとなく「無意識」(≒システム1)を利用されるのは不愉快じゃない? そうでもない?

 

おれはなんとなく、嫌だなあ。みなさんはどうだろうか。禁止されている「サブリミナル広告」を好ましいと思う人は少ないと思うけれど。

 

なんかこう、自意識というものかね。自意識過剰なのかね。自意識過信なのかね。自分が考えて決めたこと(≒システム2)に対して、「これが自分というものである」という思いが強い。瞬間的な反応はおれであって、おれではない、という気がしてしまう。

 

しかし、そうだろうか。心と身体、人間の全部だろうか。霊性というものがある、とかいう話は別としても、「心」のなかには「無意識」も含まれるだろう。フロイトが発見して以来そういうことになっているのだろう。

 

となると、それも含めて「おれ」である。おれは「おれ」に責任を持たなくてはならない……のか。もちろん、システム2の根底になっているとはいえ、人間が進化のうちに選択してきた、心理の自動的に見える働き。それにまで責任があるのか。

 

もちろん、言動には責任を伴う。みずから学んできたこと、知識や世間常識によって、その原始的な心の働きを抑え込む必要はある。おおよその人間はそれで社会生活を送っている。送ることができる。

 

とはいえ、おれの自意識の知らないところで、おれの選択したことがなあ、という思いが出てきてしまうのだ。

 

これについては、なにを学べばいいのだろうか。進化心理学は好きだが。やはりもっと大きな「心理学」そのものだろうか。あるいは、現代的な心理学をベースにした哲学ということになるのだろうか。学んだところで身につくとか、自分の「なんとなく無意識利用されたくねえな、操作されたくねえな」という思いがどうなるかはわからない。だいたい、おれには「学ぶ」ということがわからない。小学校からやり直したほうがいい。以上。

 

 

さらに、電脳化したりした世界では、人間の意識や無意識はどうなるのだろう? 「Caution:これは意図されたナッジです」とか警告が出たりするのだろうか?