おれの反出生主義について、いま一度

f:id:goldhead:20190209182133j:plain

こんな話題があった。

「生まれることに同意していない」と両親を訴えた男性 - GIGAZINE

インド・ムンバイ出身の27歳で、子どもを持つことに否定的な意見を持つ反出生主義者でもあるラファエル・サミュエル氏が、「同意なしに自分を生んだ」として両親を訴えています。

おれは反出生主義者であることを自認し、公言(ネット上での発言を公言というのかどうかしらぬ)している。とはいえ、主義者いうもの、どんな分野であれまったく軌を一にするわけでもなく、おれとこのムンバイの男にも考え方の差があるように思える。

おれにはおれの反出生主義がある。

というわけで、あらためておれの反出生主義について考えてみる。軽く考えてみると、おれの反出生主義は以下の二点についてまとまっているように思える。

  1. べつに今いるのを殺すことはないけれど、これ以上増やさなくてもいいとはわりと本気で思う。
  2. この考え方を多くの人に啓蒙したり、特定のだれかに押し付けるつもりはない。

以上である。

これらの考え方については、以下を参照されたい。

goldhead.hatenablog.com

シオランはこう書いた。

 私たちは死へ向かって走り寄りはしない。生誕という破局からも、なんとか目をそむけようとする。災害生存者というのが私たち人間の実態だが、そのことを忘れようとして七転八倒ありさまだ。死を怖れる心とは、じつは私たちの生存の第一瞬間にまでさかのぼる恐怖を、未来に投影したものにすぎない。

 たしかに、生誕を災厄と考えるのは不愉快なことだ。生まれることは至上の善であり、最悪事は終末こそにあって、決して生涯の開始点にはないと私たちは教えこまれてきたではないか。だが、真の悪は、私たちの背後にあり、前にあるのではない。これこそキリストが見すごしたこと、仏陀がみごとに把握してみせたことなのだ。「弟子たちよ、もしこの世に三つのものが存在しなければ、<完全なるもの>は世に姿を現さないであろう」と仏陀はいった。そして彼は老衰と死との前に、ありとあらゆる病弱・不具のもと、一切の苦難の源として、生まれるという事件を置いたのである。

生老病死。この中において、人間が完全に克服できたものはあるだろうか。少なくとも、老いること、病むこと、死ぬこと、これらは遠い未来に克服できるかもしれないが、今のところは無理である。老いや病気は金銭的な解決法でいくらかは緩和できるかもしれないが、それでも無理なものは無理である。金銭的な解決法を持たぬ人間(かなり多くの人間)にとって、それらは苦しみにのたうちまわり、不幸の中にあって甘受せざるをえないものである。

が、「生」はどうであろうか。これは人間の意志によって止められるものではないか。老、病、死はどうにもならぬ。が、あらたに人間を生産するということは、人間の意志において止めることができる。たとえば性的暴行などによる例外を除けば、選択しうるものではないか。この点において、反出生主義は成り立つと、おれは考える。

新たに生まれるものがなければ、その生によって生じる不幸が減る。それは好ましいことである。反出生主義への批判として、「なら、お前がいますぐ死ね」というものがあるが、これはちゃんちゃらおかしい。自殺にせよ他殺にせよ、それは不幸であり、苦しみである。不幸や苦しみを減らすべきであると考え、反出生主義を唱えているのに、なぜ不幸や苦しみを増やすと思われるのか。それは完全に誤っている。

もう、生まれてしまったものは仕方ない。この地獄の同胞として迎えるよりほかないし、できるだけ苦しみと不幸のない人生を送ればいい。そのように思う。しかし、結局のところこの世は地獄でしかないのだから、不幸の総量を減らすためにも、人間をこれ以上増やす必要はない、というのである。

おれは、人類の増加によって地球環境に害がある、などというよくわからない論法は採らない。ただ、人間が苦しまず、不幸にならない方法を採るべきだと言う。冗談で、「人生を六回か七回生きられるだけの富を相続させることができるならば、子供をもうけてもいいのではないか」とは言うが、そうでない人間が、あらたに人間を作ることは、不幸の連鎖を引き伸ばしにすること以外のなにものでもない。

goldhead.hatenablog.com

(1)苦痛が存在しているのは悪い

(2)快楽が存在しているのは良い

しかし、快楽と苦痛が存在していないことに関しては非対称的に考えられる。

(3)苦痛が存在していないことは、たとえその良さを享受している人がいなくとも、良い。

(4)快楽が存在していないことは、それが誰かにとっての剥奪でない限りは、悪くはない。

と、おれはこのように思うのだ。そして、このように書き散らかすのである。もう、人間など生産する必要などないのではないか、と。昨今の児童虐待死など見てみるがいい。人間が人間を作ることを否定してなにが悪いのか。

もし、「人間が人間を作らなくなったら、少子高齢化が進み社会が成り立たなくなる」という人がいれば、こう反論したい。「人間の子供というものは、畜肉になるべく生み出された家畜なのか?」と。屠殺されるためだけに生産される家畜のように、労働のため、上の世代のために子供を作るのがよいことなのだろうか。おれはそうは思わない。

あるいは、「これは優生主義につながるのではないか?」という声もあるだろう。そこには気をつけるべきだ。だが、それは「車の運転を認めることは、煽り運転で誰かを殺すことを肯定することだ」というくらいの飛躍があると思える。おれが言いたいのは、そもそも車を運転するな、ということだ。まだ生まれてきてないものに優れたものも、劣ったものもない。健常も、障害もない。皆ひとしく価値がない。価値がないどころか、苦しみと不幸の可能性があるだけだ。皆ひとしく、未生のものは生まれてくるべきではない、のだ。

こんな声もあるかもしれない。「おまえの好きな進化心理学は、種を残すことを第一としているのではないか」と。これについては、ヒュームのギロチンを持ち出せばいいのだろうか。「である」ことと「すべき」ことは違うということだ。おれはダーウィン進化においてわれわれの心理、あるいは倫理というものが「このようなものになった」ということについてはたいへん面白く思うが、べつにだからといって、ダーウィン進化のままに、あるいは遺伝子の乗り物としての義務をはたす「べき」であるとは考えない。

埴谷雄高はこう述べた。

人間にできる最も意識的な行為として、自殺すること、子供をつくらないことの二つがある

ほかの動物のことは知らないが、少なくとも人間には意識があると考えるのがおおよそ妥当だろう。とすれば、人間が人間の意識として、あえて子供も作らないというのは、こう進化してしまった生き物が採る道として、べつに不自然ではないだろう。自然がいいものだとだれが決めたのか。

以上のようなことによって、おれは反出生主義者である。これ以上、不幸を作ることはない。地獄のはらからを増やすことはない。これである。

とはいえ、おれはこれを声高に唱えても、そこのあなたに強制したり、押し付けたり、そんな面倒な気を起こすことはない。ただ、おれはこう考えていると言うばかりだ。それに感化されてしまうようなやつがいてもいいし、反感を抱き、反論を書くやつがいてもいい。もちろん、無関心なやつがいてもいいし、だれがいても、だれがいなくても、どうでもいい。おれは勝手に生きる、考える、おまえもそうしろ、それだけだ。

<°)))彡<°)))彡<°)))彡<°)))彡

<°)))彡<°)))彡

<°)))彡

 

生誕の災厄

生誕の災厄

 

 

 

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪