反出生主義者はへこたれない 森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』を読む

 

生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書)

生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書)

  • 作者:正博, 森岡
  • 発売日: 2020/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

おれは反出生主義者を自認している。

おれの反出生主義は、シオランを読んで目覚めたものでもなければ、べネターを読んだせいでも、ショーペンハウアーから学んだわけでもない。

まず、おれの中から生じてきた思いがあって、その後に「反出生主義」という言葉を知ったのだ。

反出生主義、この世に生まれ出るという不運―シオラン『生誕の災厄』を読む - 関内関外日記

べつに今いるのを殺すことはないけれど、これ以上増やさなくてもいいとはわりと本気で思う。

おれはこれを書いたとき「これだ」と思った。べつにだれの言葉の引用でもない。おれの内から湧き出た言葉だ。ひょっとしたらだれかの影響を受けているのかもしれないが、それを言い出したらキリがない。ここに今叩きつけている言葉そのものも影響だろう。ともかく、「今いるのを殺すほどではないが、これ以上増やさなくてもいい」。これはおれの生命観、人間世界観のど真ん中に据えてもいいように思えた。

 

とはいえ、反出生主義的発想はとくだん珍しいものではない。それこそ、長い人類の歴史、西暦紀元前十世紀以上前から存在していたものだ。人間が自分の人生を生きてきて、その中で芽生えやすいものと言えるかもしれない。その長い歴史については、まさにこの本を読んでみればいいだろう。古代ギリシア、古代インド。

そして仏教。おれはいくらか仏教という反出生主義を内包した思想についての本を読んできたから、そこから知らず知らずに汲み取っていた可能性もある。

いずれにせよ、反出生主義の歴史は長く、人間の思考、意識にのぼりやすいものであるといってよい。それはときに宗教になり、文学になり、哲学になる。

生殖が人間にとっての自然というならば、それを否定することも意識を持った人間にとって一つの自然な発想ではないのか。ある種の普遍的な考え方だ。

そして、今、この時代、反出生主義が流行の兆しを見せている。そこには現代ならではの問題意識があり、地球人類発展の反映があるだろう。

たとえば、おれはそれに与しないが、地球環境を守るために人類は増えるべきではないという考え方などもあるだろう。

おれはべつに人類がいなくなることによって地球環境がどうなろうか知ったこっちゃない、という立場だ。モルモットが進化してモルカーになり、それが恒星間文明を築こうとも、逆に地球という星から一切の生命が消え失せて静かな石ころになろうとも構わない。

では、おれというこの一個の人間が「生まれてこない方がよかったのか」という、その一点のみを問題とするのか。おれは生まれてこないほうがよかったのか。

実のところ、おれにとってそれもどうでもいいことだ。すでにおれは存在してしまっているからだ。今のところ時が過去に進むこともないし、セーブポイントからやり直すこともできない。もう手遅れなのだ。おれには、「いま、ここ」しかない。今さらおれに「反出生」を適用することはできない。

いや、できる。おれがおれの血をひく、新たなる不幸を生み出さないようにすることだ。そして、あらゆる人類が新たなる不幸を生み出さないほうがいいんじゃないかと丘の上のばかとしてぶつぶつ言うことだ。公開される日記でシオランのすばらしい言葉を紹介することだ。

で、おれは本書の冒頭で肩透かしを食らった。肩透かしというか、すれ違いというか、立ち会いの変化というか。

「はじめに」にこう記されていた。

 本書では、反出生主義のうち、自分が生まれてきたことを否定する思想を「誕生否定」と呼び、人間を新たに生み出すことを否定する思想を「出産否定」と呼ぶことにしたい。この二つは密接に結びついているが、私が本書で重点的に検討してみたいのは是者の「誕生否定」の思想についてである。すなわち、「私は生まれてこないほうが良かった」という考え方である。p.14

おれはどちらかというと「出産否定」について考えているし、それについていつもわけのわからないことをつぶやいている。

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というわけで、あらためておれの反出生主義について考えてみる。軽く考えてみると、おれの反出生主義は以下の二点についてまとまっているように思える。

  1. べつに今いるのを殺すことはないけれど、これ以上増やさなくてもいいとはわりと本気で思う。
  2. この考え方を多くの人に啓蒙したり、特定のだれかに押し付けるつもりはない。

以上である。

 

むろん、密接に結びついているのは確かだ。もちろん、どちらかと言われれば「私は生まれてこないほうが良かった」と思うし、その延長線として「誕生否定」があるのかもしれない。とはいえ、おれは「誕生否定」について検討したいのである。むろん、これについて著者に非があるわけでもない。関心の方向がちょっと違うだけだ。

とはいえもちろん、考え方が真正面から対立している。それについてはわかっていた。「現代思想」の特集だって一応読んでいる。だから、「あ、誕生否定……?」となって、八艘飛びで立ち会いの変化ですかされた感じがするのだ。がっぷり四つで組み合うことにはならなかった感がある。なんでさっきから相撲でたとえてるんだ。

というか、当代一流の哲学者と、高卒の無学者が組み合えるはずもない。おれにはショーペンハウアーすら読めなかった。おれにあるのはヒップホップの初期衝動、いや、ヒップホップは関係ない。おれのなかから生じた発想、それを補強してくれたシオランの言葉があるくらいだ。ベネターはちょっと感性が合わないかもしれない。というか、べネターから感性というか感情を受け取れない。「それが分析哲学というものだよ」というのなら、おれにそれは向いていない。

シオラン。おれは最初、この本でシオランのシの字も出ない可能性を感じていた。が、出てきた。出てきたけれど、自殺しきれなかったペシミスト、最後はアルツハイマーで死んだ惨めな老いぼれという扱いだ。これはおれの意地悪な受け取り方だが。ちなみに、おれが無人島に本を一冊持っていっていいというならば、シオランの『カイエ』を選ぶことだろう。

自殺、自殺と反出生主義。関係あるようで、関係ない。関係ないとは言えないけれど、直接繋がっているものでもない。「反出生主義を標榜するなら、とっとと自殺したら?」というのは成り立たない。これは本書の著者も述べるところであり、その点は同意できる。

 慎重に考えてみれば分かるように、「生まれてこなければよかった」という考え方と、「死んでしまったほうがよい」という考え方は、まったくの別物だ。(中略)すなわち、自殺によって肯定されるのは「死んでしまったほうがよい」という考え方のほうであり、けっして「生まれてこなければよかった」という考え方のほうではない。この点は、論理的に押さえておかなければならない。「生まれてこなければよかった」と嘆きながら、それを理由に自殺するのは、哲学的には錯誤行為である。p.47

 

そして、おれは、著者が『ファウスト』やショーペンハウアーウパニシャッド哲学、原始仏教を旅しながら反出生主義、誕生否定の哲学を探っていくのを「ふーん」と思って読みすすめることになった。

次に気になったのは、ニーチェについてである。著者はニーチェについて、反出生主義を突き破るための重要な思想家と考えているようである。たぶん。で、ニーチェの永遠の回帰についてだ。

……まず、宇宙に存在するすべての力の総量は一定であり、有限である。そしてそれらの力の組合せのパターンもまた、果てしなく多いであろうが、有限である。これに対して、時間は無限である。時間の流れに終わりはない。ということは、時間が流れていくうちに、果てしなく遠い未来において、宇宙に存在し得るパターンは使い果たされ、過去に存在したのとまったく同じ状態が、将来ふたたび宇宙に訪れるのは確実なのであり、その回帰は永遠に繰り返されるのである。p.220

これは、この考えは、おれの敬愛する革命家ルイ・オーギュスト・ブランキの『天体による永遠』そのものじゃないか。いやはや、これもまた人類普遍の発想なのかもしれない。おれはブランキの夢想を愛する。

goldhead.hatenablog.com

何十億という地球の上で我々が、今はもう思い出にすぎない我々の愛する人々といつも一緒にいるのだということを知るのは、一つの慰めではないだろうか? 瓜二つの人間、何十億という瓜二つの人間の姿を借りて、我々がその幸福を永遠に味わってきたし、味わい続けるだろうと想像することもまた、別の楽しみではないだろうか? 彼らもまた明らかに我々自身なのだから。『天体による永遠』

話が逸れた。著者この永遠回帰の中にあって、いまこの瞬間について「イエス」と言うことで、過去・現在・未来のすべてが肯定されるのだという。その瞬間が一回あるだけで、苦しみのある人生も肯定されるのではないかという。たぶん。あと、「運命愛」というのが関係するらしい。

でも、そうなの? どうも永遠回帰そのままでは、過去に起きた悲惨な出来事、たとえば原爆投下とかまで肯定しなくてはいけない。そこで著者はこう述べる。

 もし私が永遠回帰の思想を受け入れることができるとすれば、それは永遠回帰の思想が次のように薄められたときのみである。すなわち、「もし仮にいまこの瞬間が何度宇宙に戻ってきたとしてもそれでよいと思えるように私は生きなければならない」という思想にまで薄められたときである。そうなれば、私はいまこの瞬間を心から肯定できるような生き方を目指すとともに、いまこの瞬間を準備した過去の悲惨な出来事については、それをいまから振り返って肯定することはあり得るとしても、それが将来ふたたび同じ内容で繰り返されることについては完全に拒否するという態度を貫くことができるようになる。p.256

え、思想ってウイスキーや焼酎のように薄めてしまってよいものなの? と、思ったら、直後で「これは、もはやまったく永遠回帰の思想ではないだろう」って書いてたわ。

で、「運命愛」(「人生がこのようであるという必然性を愛すること」p.228……むずかしいので本書をあたってください)に魅力の光があるという。とはいえ、永遠回帰あっての運命愛なので、それだけ取り出すのはニーチェとは別物になるかもしれんという。都合のいいところだけ取り出して、その別物を論拠にしてしまっていいのだろうか。いや、著者は著者の新しい哲学を打ち立てようとしているのだから、それもいいのだろう。

そうだ、著者が冒頭から繰り返し述べているのは、生命を哲学すること、生命哲学というものを作りたいということだ。壮大な話だ。反出生主義はその踏み台といってはなんだが、その構想が否定するところの一個の思想のようである。べつにいいけど。

しかしまあ、むずかしいよな、哲学。おれは次のようなところを読んでもさっぱり理解ができなかった。ベネターの比較論を否定するのに、「それは比べられないものを比べようとしてるんだぜ。だからべネターの論はそもそも成立しねえんだよ」と説明しているところだ。

 「私が存在していないこと」がどういう状況かを、いまここに存在している私が、反事実的に想像してみることはできるかもしれない。たとえば、「もし私が存在していなければ、私はひどい苦しみに耐えなくてもよかったことだろう」という反事実的な想像をしてみることはできるかもしれない。ところが、「私が生まれてこなかったこと」がどういう状況なのかを、いまここに存在している私が、反事実的に想像してみることはできない。なぜなら、「もし私が生まれてこなかったならば」という反事実的な想像を正しく完遂しようとすれば、それはいまここでそれを遂行しようとしている私の存在をも消さなければならなくなるからである。もし私が生まれてこなかったならば、私はいまここにいるはずはないのであり、この問いを考えることすら不可能なはずだからである。p.285

そうなの? 

「私が存在していない宇宙」は、反事実的に措定可能である。ところが「私が生まれてこなかった宇宙」は措定可能どころか、そもそも語義矛盾である。もちろん「私が生まれてこなかった宇宙」という文章を私は組み立てることはできるが、それが具体的に何を意味するか私は理解することはできないし、それが具体的にどのような状況なのかを想像してその善悪を判断することもできないのである。なぜなら、それを想像するためには、いまここでそれを想像する私それ自体の不在の状況を作り出さなければならないが、それは不可能だからである。(中略)私の存在を反事実化することは可能であるが、私の生成を反事実化することは不可能である。私は自身の存在の否定の外側には立てるが、私自身の生成の外側には立てない。p.286

禅問答では「父母未生以前の自己如何」という言葉を組み立ててしまうが、まあいい。不立文字。で、この「私の非存在/非生成問題」とやらはまったく理解の外側にある。著者は「存在していない」状態になれるのであろうか。それならそれはすごいことだ。でも非生成にはなれんのか。わからん。おれには「非存在」と「非生成」の違いがまるでわからんかった。著者自身、「まだ萌芽的なもの」というのだから、わからんのでいいのかもしらんが、わからんとメモしておく。でも、これじゃあ、これを根拠にべネターの誕生害悪論を否定できるとも思わない。べつにおれはべネターが好きなわけではないけれど。

で、著者は最後の方になってハンス・ヨーナスという哲学者だか思想家だかを持ち出してくる。

「現代の世代が存在するために将来の非存在を選択する権利は、われわれにはない」p.291

……ということだそうだ。そうなの? なんで? むしろ、少子高齢化社会を支えるために、つまりは「現代の世代のために将来の存在を選択する権利は、われわれにはない」といったほうが、誠実ではないのか。次世代は現代の世代、やがて老いて動けなくなる世代を支えるための道具として生み出されるべきなのか、労働機械として生み出されるべきなのか。それって、すごく身勝手で、無責任で、無慈悲じゃねえの。

ヨーナスは人類が子どもを産んで生存し続けることを「命法」として提示し、それはいかなる理屈によっても覆されてはならないと考えた。その根拠となるものは、生物進化の果てに獲得された「義務」を担える存在が宇宙にあり続けることの尊さであり、かよわき新生児から発出されているところの、みずからを存在させ続けよという呼びかけである。p.292

なんだよ、理屈によって覆してはならない「命法」ってよ。どっかの神様がそう言ったのか? おれはそれに乗れない。

「子供が飢え死にすること、そうした事態の発生を許すことは、人間にとってありうるすべての責任の中でも第一の、もっとも基本的な責任を踏みにじることである」p.292

ともヨーナスさんは言ってるらしいが、子供が飢え死にしなけりゃいけないような環境というものが現にあって、そこで子供を作ってしまうことの方が、責任の放棄ではないのか? 人間が子供を踏みにじっていることじゃないのか。同じ神かなにかを信じない人間にとって、いや、少なくともこのおれにとって、このヨーナスさんの思想は受け入れがたい。それこそ、「根拠を求める議論」が成り立たない。

と、ここらあたりから、やや「出産否定」に話が接近してくる。出産についての問題は、リヴカ・ワインバーグという人の研究があるという。「出産許容性原理」なるものを考えだしたという。

(1)モチベーション制限

 子どもが生まれたらその子どもを育て、愛し、伸ばしていきたい、という願望と意志によって、出産は動機づけられていなければならない。

(2)出産バランス

 何らかのリスクがある環境下で出産を許容してほしいのならば、あなたが親として子どもに課するそのリスクが、もしあなたが生まれてくる子ども自身だと仮定したときに自分の出生の条件として受け入れたとしても非合理的ではないときにのみ、その出産は許容される(ただし子どもとしてのあなたは生き続けるだろう、と前提する)p.297

しかし、著者はこの考え方だけでは、「同意不在論」、すなわち、この世に生まれてきた人間はすべて同意のない暴力によって生み落とされてきたという考え方に対して足りてないという。だから、著者は自らのオリジナルとして次の項目を付け足す。

(3)応答責任原理

 親になろうとするものは、生まれた子どもが誕生否定の考えを抱いて親に「なぜ自分を産んだのか」と問うたときにその問いに真摯に応答していく、という決意を持たなくてはならない。p.302

……ってさあ、さっきからなんたら原理、原理というけれど、世の中の人間、そんなこと考えて生きているのか。真摯な応答ってなんだ。現実の話をしているのか? すべての人間に叡智が授けられた理想世界を夢想しているのか? おれには、とくべつ頭のいい、そうとうに恵まれた人間が、後者についてああだこうだ言ってるようにしか見えない。

この世の人間の不幸は誕生否定の考えを抱くようなところにあるのか? そういうこともあるだろう。だが、ほとんどのケースは、もっと即物的なことだろう。それこそ飢えもある、貧困もある、家庭内暴力もあれば、性的虐待育児放棄もある。生まれた瞬間公衆トイレに流されてしまう嬰児もいる。そういう現実に、こういった議論が応えるところあるだろうか? べネターの比較は成り立たないというが、比較もなにもない、不幸の絶対量がこの世界に増えていくばかりではないか。違うか? 

と、この点について、「反出産主義」について、「確定的な答えは用意されていない」というのが「本書の暫定的な結論」らしい。出生の非対称性、暴力性について、おれはそれを問題にする。

で、おれは言うのだ。

blog.tinect.jp

少子化、無産化によって人類が滅んでもよい、というのは危険思想だろうか。

まず、絶対に勘違いしてほしくないのは、生まれてきてしまった人間を死なせるつもりは一切ないということだ。自分自身を含めてだ。

望みもせずこの地獄に生まれてきてしまった共柄だ、同胞だ。

 

地獄の仲間に地獄を味わわせる必要などない。

せいぜいお互いに同情しようというだけだ。

親切にしようというだけだ。

……危険どころか平和で仲良しだ。悪くない。

この世に生まれてきてしまった人間は、もうどうしようもない。生まれてきてしまったのだから。この地獄のはらからだ。せいぜい同病相哀れむようにしよう、せいぜいお互い親切にしよう。

これである。これをもって、新たな不幸の総量を減らしていってもいいのではないか。段階的に人類の数が減って、やがて滅んでも構わない。だが、べつにそこのあなた、あるいはあなたたちが子供を作ろうというのなら、まあ勝手にしてくれ。もしそれで子供が生まれてきてしまったら、ほかにしようがないから、地獄の同胞として迎え入れよう。おれのスタンスは、こうだ。

シオランだってこう言っている。

私は思いやりのある人間で、他人の苦しみは、じかに私に響く。でも人類が明日消えてなくなっても、私にはどうでもいい。

シオラン対談集』

やはりおれはシオランに落ち着く。

一方で、著者は誕生肯定の哲学に突っ走っていく。まだこの本も三部作の一作目だとか言う。

たとえば、私の人生はつねに思い病気や障害に悩まされるものであったから、そもそも生まれてこないほうがよかったという思いがいつも湧いてくるのだけれども、それはもあや遂行不可能であり、それに固着しても仕方がないから、これからは「生まれてこないほうがよかった」という思いに縛られずに、それを解体する道筋を探して生きていこうとすることである。p.308

ま、それもいいんじゃないっすか。ポジティブでいいんじゃないっすか。ガッツっすね。でも、これも「心理学的な次元」であって、「哲学的な次元」ではないらしい。そうですか。心理学的な次元において「生まれてこないほうがよかった」と思うことがあっても、哲学的な次元とやらで検討すれば、それは誤った比較によるものらしい。はあ、さいですか。おれにはわけがわからない。ただ、わかることもある。

その薬はおれに効かない。

おれはおれの抑鬱状態を知っている。

身体がぴくりとも動かなくなることを知っている。

おれはおれの倦怠を知っている。

無限のように時間ばかりが引き伸ばされ、ただ意識だけが空回りするその感覚を知っている。

おれはおれが現世において恵まれないことを知っているし、善行をなして満ち足りて死ぬことがないことも知っている。

それでもおれは死をポケットに入れて、ずったらずったら貧困の街を這い回る。

おれの薬は抗精神病薬とアルコール。

そこに哲学の次元も、生命の哲学もない。

 

人間は、自分が呪われた存在だということをたやすく忘れてしまう。世の始まりからして、呪われているせいである。

シオラン『告白と呪詛』

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