南直哉の書いた物語である。実に短い本なので、べつにおれがどうこう紹介したり、感想を書いたりする必要もないように思える。あっという間に読めてしまうのだから、読んでしまいなさい、と言いたくなる。
そこで、「なるほど、おれもこのような苦しみを生きている」と思う人もいるだろうし、そういう人はこの本を人生のかたわらに置いて何度も読むだろう。一方で、「なにが話し合われているかさっぱりわからない」という人もいるだろう。そういう人はおれの書くものなどに興味もないだろうから、このあたりで画面を閉じてしまうだろう。
南直哉は永平寺で修行し、恐山に赴任した僧侶である。ならば、この本は仏教の本であろうか。そうであるともいえる。そうでないともいえる。どこにも仏という言葉も見当たらないし、釈尊の名前も道元の名前も出てこない。かろうじて「神」、「聖者」という言葉は出てくる。とはいえ、必ずも肯定的ではない。このあたりは、著者がキリスト教に傾倒しつつも、最後の一歩で信じられなかった、踏み入れなかった体験によるものだろう。この本の老師は南直哉であり、少年も南直哉なのだろう。べつに区別はいらないのだろう。さらに隠者<道の人>の話があって、べつにそれが釈尊であると明記されているわけでもない。
「<道の人>は私にこう言った。
『あるということも、生きるということも、今ということも、ここということも、この世界がこのようであるということも、“自分”という形でしかこの世には訪れない。だが、眼をひらけ。それは、あるだけであり、生きるだけであり、ここだけであり、世界であるだけだ。“自分”ではない』」
諸法無我?
「あのとき、<道の人>も私にそのことを教えたのだ。
『私がある、という思いを離れよ。離れたならば、もはや私は私ではない。世界は世界ではない。今は今ではない。ここはここではない。それは存在することではなく、生きることでもない』
私は今の君のように言った。
『では、何なのです!』
すると<道の人>は静かに言った。
『断念せよ。それまでだ』、と。」
「でも、ぼくはここにいるのに」
「友よ。耐えるのだ。そのようにしか生はわれわれにやって来ない。『自分は自分ではない』、ならば『自分』を作らねばならない。水を飲む器を作らねばならない。人が生きるとはそのことだ。人が水を飲むとはそういうことだ。その重荷を引き受ける。生きることが尊いのではない。生きることを引き受けることが尊いのだ」
「どうして?」
「引き受けなくてもいいからだ」
犬のように水を飲んでもかまわない、だが、器を入れることに尊さがある。そして、最後まで飲み干せという。そのとき、死は渇きを癒すように訪れるという。
本書には、生命の肯定がある。ある種の苦しみを抱えて生きてる、生きざるをえない人間に対して、そう語りかけている、問いかけている。おれはそのような考えに取りつかれている人間であって、万馬券が当たればいいと思うが、本当のところはそこにはないと思っている。本当のところを求めながらも、本当のところはわかんねえなと思っている。生きているのもいやになるが、死ぬのもいやだ。そういう人間に仏教のラディカルは深く刺さる。クールに言えばツールなのだ。そこに全額ベットするような人生を送れるわけじゃないが、いつかあるいは死ぬときに払い戻しがあればいい。そんなふうに思っている。
「生きる意味より死なない工夫だ」
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