南直哉『善の根拠』を読む

 

善の根拠 (講談社現代新書)

善の根拠 (講談社現代新書)

 

 本書における「倫理」とは、様々な条件に拘束されながら、様々な局面である行為を選択しなければならない時々に、「自己」という存在様式を維持し、肯定し続ける「意志」を問うことである。その「自己」が「他者に課される」以外に存在できない構造になっているから、結果的に「社会」(ある集団における人間関係の総体)の問題になり、「道徳」(人間関係の秩序維持)に通じるにすぎない。

 つまり、善悪が成立するために必要なのは、「社会」が、それ自体で独立した存在であると錯覚されている「個人」に、既成の規範や徳目を刷り込むことではない。核心は、まず「他者」が「自己」に「自己であること」(=人間の存在様式)を課し、かつ受け容れるように仕向けることなのであり、「自己」がその受容を決断することなのである。

 だから、ここで言う善悪は、「我々はみな共に生きている」という「事実」に関わるものではない。もしそうなら、「我々」の範囲は、自分が実際共にいるか、共にいると感じる人々に限られて、それ以外の者は無視される。となると、善悪の判断は付き合いの都合に左右されて、所詮、処世術の一種に過ぎないということになるだろう。

 本書が言いたいのは、善悪とはそういう「事実」の問題ではなく、「他者に課された自己」という存在の仕方、「実存の様式」の問題なのだ、ということである。

 「はしがき」で「本書は仏教書ではない」と言い切っている禅僧である著者が、はじめに言い切っているのが上のようなことである。とはいえ、仏教の「諸行無常」、「諸法無我」、そして「縁起」をベースに、仏教いうものに善悪はあるのか、善はあるのか、倫理は出てくるのか、というところに向き合ってる、そして言葉を構築している。

それが「他者に課された自己」というキーワードにつながる。して、ここに出てくる「他者」とは、山根さんとか田中さんとかいう誰それではなく、「共同体」であるという。では、その共同体とはどこからどこまでを指すのか。いまいちわからなかった。ただ、最初の他者は自己を名付けた親にあたるものであるという。そして、あらゆる人間の自己というものが「他者に課された」ものである以上、その実体は存在しない、ということなのかもしれない。わからんが。そして、仏教の「三帰」、「十重禁戒」をベースにして筆者の思想が展開されていくのだが……。

ようわからん。というか、まとめる力がない。というわけで、おれはわりと難しい本が読めないのである。とくに哲学や倫理に行くと目が滑っていく、あさっての方向に行く。

が、本書は親切構造になっていて、第二部が「対話篇」なのである。問答の形で第一部で書かれていたことについて、対話風の形式をとって振り返ってくれるのである。

――そこで君の議論の核心の一つに触れておこう。善悪の問題に直結する「自己」という実存の様式が、キーワードの一つである「他者に課せられた自己」というアイデアで示されるだろう?

 

 そうだね。

 

――で、そのアイデアのバックに仏教の「縁起」の思想があると。

 

 正確に言うと、僕が解釈した「縁起」の考え方が「自己」の在り方に適用されている、ということだな。つまり、存在するものそれ自体にはそのように存在されている根拠は欠けていて、その存在とは別のものとの関係から生成されてくる、と考える。

 

――それは「他者」それ自体「自己」に先立って存在し、「自己」の在り方を決定する、という意味なのか?

 

 違う。あらゆる存在に関係は先立つ。……

「あらゆる存在に関係は先立つ」。まず関係あり。右と左は中央線を引いた瞬間に成り立つ。いや、同時、なのか。ようわからん。

仏教は「無常」という根本によって、「自己であること」を解消すべきものとしている。「自己」は「苦」ゆえに解消されねばならない。それがあって、善悪の在り方は「自己」の構造に根ざさねばならない。なにやら矛盾しているところがある。そこで著者は「賭け」というのだが、そこのところが今のおれにはわからない。

さらには、「共同体の不調は『自己』の不調に反映する」というのだが、やはり共同体の範囲がわかりかねる。

 

――君は前置きのようなところで、仏教の戒は禁止命令ではなく、自制の意志あるいは誓いだと言っているね。

 

 一神教の場合なら、それは啓示として課せられる禁止命令だろう。否応なく上から降りてくる命令。問答無用だ。

 

――ところが、仏教の場合はそうするかどうかは本人の問題というわけだ。

 

 殺してはならないという命令への服従ではなく、殺さないという誓いだね。

 

――で、その殺さないという誓いの前提が、自死しないという意志と選択だと、そう君は言うわけだ。

 

 このとき、自死そのものを「悪」と決めつけることはできない。自死できる能力を持って生まれてくるのだから、生まれてくることを「悪」と決めつけない限り、自死を「悪」とは断言できない。

 

――人間はそのように生まれる。自死できるように。

 

  生まれついてそうなら、善悪は関係ない。自死の選択肢を持つ以上、その行使を禁止する理屈はない。あったとしても、そんな後づけの理屈は無意味だ。どんな理屈を聞かされようと、自死すると決めた人間は自死する。

 とすると、他者を殺さないという話は、殺すこともできるし、殺さないこともできる当人が、生きていないと始まらない。「他者に課せられた自己」という構造を生きなければ始まらない。そう生きる決断が殺人を自らに禁ずべき「悪」としうる。

「なぜ人を殺してはいけないか?」問題。しかし、これについて「だから、結局のところ、その気を捨ててもらうしかない。理屈ではないんだ」と言っていて、理屈ではないのか、ということになる。べつに「根拠」が「理屈」である必要はないのだけれど。

と、いうことで、なにやら、なんだかあれだ、徒手空拳で挑むにはややピンとこない本であった。しかし、なにかしらの武器を持てば、なにかが見えてくるのかもしれない、とも思うた。今のところ、おれにはそれがない。

ところで本書、著者がまず思うがままに書いたら、原稿用紙5枚で終わってしまった。これではいかんと、善悪に関する偽経を書いていったんパーリ語訳してさらに和訳して、架空の老師の講義というフィクションにしようとしたが、それも頓挫。そして、最後に弟子を読んで対談にしてみたら、こんどは500枚になってしまったという。その対談をもとにバッサリ刈り込んだのが後半部ということだろうか。しかし、本当は仏教の戒すら持ち出したくなかったというのだから、その5枚バージョン、きっと読んでもちんぷんかんぷんだろうが、見てみたくはある。以上。

 

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