南直哉『恐山 死者のいる場所』を読む

 

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

 

 南直哉というと、このあいだキリスト教徒との対談本を読んで知った人である。

goldhead.hatenablog.com

「禅と福音」とあるように、曹洞宗の禅僧である。それも、寺の子に生まれたというのではなく、生と死の問題を追求したく出家し、永平寺で二十年修行した禅僧である。テーラワーダの僧侶すら「職業的に就職している」というようなことを言い放つ僧である。職業訓練校的に住職になるためではないサンガを作ろうとしたくらいの僧なのである。

そんな禅僧がなぜ、「恐山」なのか。経緯については本書で述べられているが、恐山菩提寺の院代(住職代理)だったからである。おれはまったく知らなかったが、恐山は仏教の宗派的には曹洞宗の管理なのである。もとは天台宗だったらしいが、ともかく今は曹洞宗のテリトリーなのである。

 

が、むろん、恐山は只管打坐に徹し、道元の『正法眼蔵』について学ぶ場ではない。恐山といえばイタコであって、霊場であって、ホラースポットであって、曹洞宗のイメージとはかけ離れているではないか。……と、著者も最初は思ったというのだから、そうなのだ。

 恐山というのはあくまで器なのです。それは火口にできた土地である。きれいな湖があって温泉が出る。そこにはこの世とは思えない異様な光景が広がっている――。

 その光景に魅かれて、やがて多くの人が集まってきた。それから何か信仰のようなおのが芽生えた、と考えるのが自然でしょう。

 恐山にある信仰というのは、特定の教義では決して割り切れるものではないのです。

 

そこで著者は、死や死後の世界に関する仏教的(曹洞宗的)な正答カードであるところの「無記」(「死後の世界や霊魂をあるともないとも言わない」)も使えない、リアルに直面する。仏教者として逃げも隠れもできない、人々の問いに直面する。そのところが興味深く、また、考えさせられる。

 永平寺坐禅に打ち込み、ブッダ道元禅師の残した言葉についてあれこれ考えていたのも、結局のところ、「死とは何か」という問題意識が根底にあったからであり、それが私を支えていたといっても過言ではありません。

ですがそれは「霊魂」とか「霊場」とか「死後の世界」などとは、まるで次元の違う話でした。私は死後に人間がどうなるのか、死後にどこにいくのか、などということには、まったく無関心でした。私の問題は「死」それ自体だったのです。

どちらかというと言葉というものを重視する筆者の考え方、あるいは思想といってもいいかもしれない。己の問題にただ打ち込んできた。できれば永平寺でずっと修行していたかったともいう。が、わけあって恐山の住職代理になってしまった。

 「自殺したものの魂は浮かばれないのですか?」

 娘を失った母親に、目を真っ赤にして言われたとき、どうするのか――。

 怖かった、というのが入山当初の正直な感想でもあります。

 「怖い」というとまた誤解が生まれてしまいそうです。しかし、何度も繰り返しますが、別にこの世のものではない何かをここで実感したわけではありません。

 そうではなく、何かここにはわけのわからないものがある。それを求めて多くの人がやって来る。しかしそれはこれまで培った知識や経験では、とてもじゃないが捌けるものではない――。

 そんな、わけのわからないものと対峙するときに生じる怖さのことです。

 そして、著者はあるときこういう感覚におそわれる。

 十五年前に初めて恐山を訪れたときの「嫌な感じ」。

 この直感はある意味で正しかったのかもしれません。当時の自分の抱えていた問題は別のところにありましたが、恐山からはそれを超える何かが匂ってきた。だからこそ「嫌な感じ」がしたのでしょう。

 入山してからというもの、延々とそのことについて考え続けました。

 二年が経つ頃でしょうか。

 突然、「あっ、ここには死者がいるんだ」・

 そう思ったのです。

 死者は実在する――。

 そのように考えなければ、恐山のことが理解できない。そう思い始めたのです。これは私の中では全く新しいアングルでした。それまでの私は「死者は実在する」などと、考えたことはなかったのですから。

永平寺の死者供養とは違う、先に死者がいる、という感覚。生者にとって欠落している死というものを埋め込まれた死者というものが実在する。恐山では生者に欠落しているその死というものを気づかせてくれる。

いや、ちょっと違うのか、死というものは死者を思う生者に張り付いている、のか。そして、なぜ生者は死者を供養するのか……。

そして、そんな恐山を舞台として活躍(?)する宗教者たちについて。

 宗教者の素質のようなものがあれば、その素質として私が一番大事だと考えるのは、教義を深く理解できる頭脳でも、縦横無尽に説教する弁舌でもありません。まして霊感でも超能力でもありません。つまり一般人にないような特殊能力を「持っている」ことではありません。

 そうではなくて、大事なのは、自分が生きていること、存在していることに対する、抜きがたい不安、先に触れた根源的な不安です。

 どうして自分はこうなのだろう、このままでいいのだろうか、なぜここにいるのか、どこから来て、どこへ行くのか。そういう問いが自分の底の方を揺るがしていることです。どうしても知りたいこの問いに答えられない切なさです。答える能力を「持っている」ことではなく「持たない」ことなのです。

 いわば、この「不安のセンス」が、宗教家の資質として最も大切だと、私は思っています。それは、ある意味、「無明」や「原罪」などという言葉に極めて敏感に反応するセンスでしょう。

なるほど。

そして、われわれも仏教者も死に対峙してかなければならない。あとがきで著者はこう述べている。

 西欧に起源を持つ「近代社会」というシステムは、資本と科学技術によって、あらゆるものの在り方を規定した。とにもかくにも、このシステムは今に至るまで支持され、「成功」したのである。

 このシステムの成功にとって大切な人間とは、より大量に生産し消費し交換する人間である。そうでない人間は、本質的に無用で邪魔な人間である。つまり、老人、病人、犯罪者、子供だ。

 したがって「近代システム」は病院や福祉施設や学校や刑務所を発明して、彼らをそれぞれに囲い込み、生産し消費し交換する効率を落とさないようにしたのである。

 この処理方法は基本的にきわめて有効だったが、システムは原理的に、どうしても処理できないものを残した。死と死者である。

 死と死者は生産し消費し交換することを妨げるどころか、無意味にする。このシステムにとっての最大の障害は、いかにしてもシステム内で処理できない。

人間の価値とは生産性である。が、そのシステムで捌ききれない死というもの。死者との関係というもの。逆に、それがクローズアップされていく。それに対して、われわれがどう立ち向かうのか、あるいは宗教家は。そして、人々はより恐山のような器に向かって集まっていくのかもしれない。死者がいる、とはどのようなことか。死してなお続く、人間というものの関係とはなんなのか。おれにはようわからん。わからんが、それについてなにか与えてくれるものの一つに宗教いうものがあるんではないか、とは思っている。そのためだけに宗教があるのではないにしても。