死と切り離された社会について

またまた寄稿いたしました。

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もっか戦争が行われているなか(とはいえ、ロシアの侵略戦争以外にも世界のどこかでは血が流れて続けているわけですが)で、この記事を書くべきかどうか迷ったのですが、やはり戦争報道を見ていて長年の疑問のようなものを記してしまいました。

長年の疑問のようなものがどのくらい長い昔からかというと、中学生のころで、影響を受けたのは呉智英の本でした。現代社会では死を、死体を隠しすぎている。あまりにも浄化しすぎていて、これでは人の生き死にについての考え方によくないのではないか……そんな内容だったと思います。

ともかく、なにかその考えに「そのとおりではないか」と多感な少年は思ったのでした。あとは、澁澤龍彦あたりが紹介していたんじゃないかと思う『九相図』なんかの影響もあったかもしれません。

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というわけで、人間は死(体)にもう少し近くあってもいいのではないか、という思いがあるわけです。

でも、そこから、災害報道などで死体を映せというのはいささかというか、かなりの飛躍で、乱暴な話です。だいたい、死者のプライバシーはどうなるのか、という話にもなります。それでも、3.11のとき、海外の報道をネットで見て驚いたのも覚えています。

もちろん、いたずらにインパクトのある画像、映像を見せれば、防災や反戦意識につながるというものではないかもしれません。もちろん体験者にしてみればフラッシュバックを起こす原因になるのでしょうし、なにも知らない人をかえってそれから忌避させてしまう可能性もあります。

むしろ、その可能性のほうが高いかもしれない。

やはり、死体なき報道が正しいような気がしてきました。なんかちょっと今日はそんな感じになりました。以上。

 

 

……それでもなお有名な死体の写真といえば、藤原新也がインドで撮った犬に食われる死体でしょうか。「人間は、犬に食われるほど自由だ」、でしたっけ。