なにが違うんだろう? 〜藤原新也『書行無常』〜

書行無常

書行無常

 なにが違うんだろう? と思う。おれもカメラを持っている。携帯電話についたものを含めれば、ものすごく多くの人間がカメラを持っている。けれど、たとえば藤原新也の写真はなんでこんなにも違うのだろう。そんな風に思う。ためしに、iPhoneでこの本の写真の一部を撮ってみる。ばかばかしい行為だ。だけど、iPhoneの画面に現れたそれは、やっぱりなにか違う。おれにはそう感じられる。なにが違うんだろう? 
 ……といったところで、写真撮影の基本的な技術書の一冊も読まないというか、読もうという気すらおこらないし、その先なんてものに思いを巡らすこともないから、真剣な問いと言えるわけじゃない。ただ、ばくぜんと「?」を浮かべるだけだ。
 と、この本は題名通り「書行」の本だった。週刊プレイボーイの連載で、毎週毎週いろいろなところに出かけ、筆と墨で「書行」する。「行」の様子は著者が撮られもするが、「書」のある風景、まわりの風景を著者が撮りもする。文章もある。ちょっと変わった本だ。
 いや、ちょっと変わった、で済まされないかもしれない。ちょうど、東日本大震災、あの3.11が起こったからだ。一週間後、藤原新也は被災地に入っている。そうだ、そんな話をネットで見た覚えもある。それを知っておれはなにか不思議な感想を持った。不謹慎と言われるやもしらんが、「藤原新也が行くのならば安心だ」と。なにが安心か? うまく言い切れないが、その惨状を、様子を、世界を、世界の真実の一端をぶっこ抜いてきてくれる、そんな感じだ。果たしてそうかどうかは、各人確かめられたい。
 ところで、この本は題名通り「書行」の本だった。おれは写真もわからないが、「書」となるとさらにわからない。藤原新也の絵はおもしろいと思ったが、「書」となるとよくわからない。桜玉吉の書のような味がある、などとお茶を濁してみてもいいだろうか。
 しかし、被災地にせよ、中国にせよ、インドにせよ、この人間との距離感というもの。人に限らず被写体との距離感のゼロのような生々しさ。人間の臭い。しかし、一方で、人間臭さの臭い、そういったものの醸し出す、ある種の胡散臭さ、鼻白んでしまうような臭さ。紙一重の感もある。このあたりについては前にも書いた。本書の企画にもなにかそりゃちょっとどうも、というところもある。あるけど、やっぱりなんか紙一重で本物の写真というのがあれば、こういうのかもしれないな、という冒頭の話に戻る。「?」は放置しておく。

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……2005〜2006年ころおれのなかでブームが来ていたのか?