生と死とセガサターンと人間の歴史 長嶋有『もう生まれたくない』を読む

 

 三月に起きた津波は、その高さが「数字で」発表された。その数字より高いところにのぼったら生き残り、低ければダメだった。あるいは、同じ建物の三階に逃げた人は死に、屋上の人は生き残った。

 生と死って、そんな「分かち」方になるのか。生と死はデジタルな二種類だけで、でも数字は密で、ぎゅうぎゅうと身を寄せあって並び続けている。そうなのか。そうなんだけれど。

この小説は、「2011年7月」、「2012年10月」、「2013年6月」、「2014年4月」に分けられている。分けられているが、その時々、あるいはそれ以前に死んだ人々の名前が出てくる。おれは感想文に、その人々の名前を書き記そうと思ったが、なんと巻末に一覧が出ていた。有名人、そして、小説内の人々。先回りされた感じがした。すごい。では、主な死者を記す。

「石川県かほく市落とし穴事件」のことなど、すっかり忘れていた。新婚の妻が夫を驚かせようと友人などと落とし穴を掘ったところ、あまりにも深くふたりとも窒息死した。そんなこともあった。

そのときは、それなりに覚えているのに、忘れてしまう。死者のことは、忘れてしまう。桜塚やっくんの死を、いま、どれだけの人が覚えているだろうか。ゴシップとして消費され、忘れ去られてしまう。よいだのわるいだのではなく、そういうものだ。

身近な人間の死というものも、そのようになる。おれも四人の祖父母の死について、その年月も順序もいまいち覚えていない。生と死はデジタルであって、かといってわれわれの生は、記憶はアナログ的なのかもしれない。

本書では、有名人の訃報のほか、セガサターンX-JAPANのゲームの話などが出てくる。現在において、たとえば二十代前半の読者がいたとして、どこまで通じるだろう。世代的に同時期を過ごしたおれでも、そんなものは知らなかった。ジェンガは知っているが、やったことはない。そんな陽キャの集まりに集まったことはない。

長嶋有の小説は、初めて読んだ。そのキャラクターの造形に舌を巻いた。細かいところまでよく行き届いていて、なおかつ空白に余白をもたせる。まったく謎のキャラもいる。さらに細かく、町中華の店のやけに小さい液晶テレビについて、かつてはもっと大きなブラウン管が置かれていたのだろうというような記述がある。そこまで細かいことに気づくのはたいへんなことだ。おれの行く床屋でも、たしかに台に対して液晶テレビはいかにも小さい。キッチン・ドランカーが最初マッカランを飲んでいたのに、安いニッカになるというのもリアルだ。

本書を手にとったのは、栗原康の『アナキスト本を読む』で紹介されていたからだ。題名からは反出生主義でも思い浮かべそうなものだが、とくにそういうものではない。しかし、そう思ってもいいような余地は残されている。どことなくユーモラスな背景に、なにかそれだけではない不穏さが含まれている。

おれは長嶋有の小説をはじめて読んだが、「このようなものが現代小説なのか」という、ある種の驚きもあって、また手に取ることになると思う。

以上。