ちょっと元記事を見失ってしまったが、安楽死をめぐる問題について、「安心して自殺できる制度を」的なコメントがちらほらとつく。
死後剖検(心理学的剖検)によれば、自殺者のかなりの割合の人が精神疾患を患っていたという。おれとて、社会の底の方の精神障害者だ。いつそうなるかもわからない。
苦痛なく、確実に自死できる制度、システム、技術があればいい……とまでは言わないが、考える余地はある、というくらいに考えていることは明らかにしておきたい。
その上で言うけれど、それを「安楽死」または「尊厳死」という話題に持ち込むのは、ちょっとやめたほうがいいんじゃないのか、ということだ。
「安楽死」という言葉については、その定義や是非についてわりと長く論じられてきたものだ。主に、もう、救いがたい身体的な病苦の末期について。
そこに、「生きるのは辛いが、自殺には失敗がありがちだし、苦痛も伴う。確実で、苦しくない方法で死にたい」という意見を持ち込むのは、ちょっと違うように思う。「積極的安楽死」と呼ばれるものだって、そこまでは範囲を広げたものではない。
それには、なにか別の名前が必要だし、あくまで医療の極限における処置とは別物だろうと思うのだ。安楽死の問題は安楽死の問題、希死念慮に基づく自殺システムについてはべつの問題。
ならば、その自殺願望をどう呼ぼうか。そのシステムや制度をなんと呼ぼうか。とくにおれにはアイディアがない。それを題材にしたSF作品などもあるだろうし、そういうところから取ってきてもいいかもしれない。
いずれにせよ、安楽死は従来の安楽死として論じられるべきだろうし、自由意思による苦痛なき自殺のシステムについてはべつの名前のべつの問題として論じられるべきだろう。これが混線してしまっては、話が進まない。それとこれとでは、話が違うんじゃないのか。
もちろん、人間の生死についてという点では共通するところはある。あるけれど、従来議論されてきた「安楽死」と、身体的な不知の病とはべつの「安楽な自殺」を一緒くたにするのは、ちょっと無理あるんじゃないのか。
なんとなく、そんなことを、思った。
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