
- 作者: デイヴィッドベネター,David Benatar,小島和男,田村宜義
- 出版社/メーカー: すずさわ書店
- 発売日: 2017/11/01
- メディア: 単行本
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最近の反出生主義の本というと、これらしい。おれは反出生主義者として目覚めたばかりであり、その根拠というか、同じことを考えているやつ、同じことを考えているやつの考えを知りたかった。だから、この本を読んだ。
ページをめくりかえすことなく、印象を述べる。となると、「なに回りくどいこと言ってんだ」、「もっとズバッと言え」、「シオランだったら3ページで済むぞ!」というあたりである。
どうも著者は、「自分はえらく間違ったことを述べているのではないか?」という意識が強く、あれやこれやと理屈をつけて反出生主義を訴えるのである。もとより反出生主義者であるおれにとっては、それがまどろっこしい。そんなのわかりきったことだぜ、と言いたくなる。
が、これが非反出生主義者の、世間的に見れば常識人にとってみれば重要なことなのかもしれない。そっから言わなければ駄目なのか? 駄目なんだ。そういうところだ。そういう本が必要なのかもしれない。いきなり「シオラン読め」ではいけないのかもしれない。
私たちの誰もが、生まれさせれてしまったことで、害悪を被っています。その害悪は無視できるものではなく、たとえどんなに質の高い人生であっても、人生は非常に悪いものなのです。大抵の人がそう認識しているよりも遥かに悪いのです。とはいえ、私たち自身の誕生を防ぐにはもう遅すぎます。しかし、将来生まれてくる可能性のある人々の誕生を防ぐことはできます。というわけで、新しく人々を生み出すことは道徳的に問題があるのです。この本の中で、私はそのような主張をします。
「まえがき」冒頭
な、まわりくどいだろ?
でも、なんかわからんが、本書の中盤あたりから筆者の過熱がある。
「どれくら人間は存在するべきなのか?」という問いへの私の回答は「ゼロ」だ。言い換えれば、何人であれ人間はそもそも存在するべきではないと私は思うのである。これまでに人間が存在してしまっているということを踏まえても、これ以上存在するべきだと私には思えない。
この調子である。この考え方はおれのおれのなかから出てきた言葉にも適合する。おれは「今いるものを殺すほどのことではないが、新しく作るべきではない」と考えている。シオランでも、ショーペンハウアーでもいいが、だれかの思想を受けて考えたことではない。おれの反出生主義はおれのなかから澎湃と湧き上がってきたものである。
存在してしまうことは常に害悪であるという見解はほとんどの人の直観に反する。人々はシンプルにこの見解は正しいはずがないと考える。
このように著者は言う。そのためにいろいろなパターンを提示し、そして反駁をくわえていってるのが本書だ。だが、「ほとんどの人」ではないおれにとっては、じつに「まわりくどいこと言ってるな」と思える本であった。
ということは、しかし、「ほとんどの人」にとっては、刺激的な本かもしれない。もし、直観的に「存在してしまうことは害悪だ」ということに反対する人がいるならば、ちょっとこの本読んでみてもいいんじゃねえかと思う。
「訳者あとがき」に簡単にまとめられている本書の基本思想を最後に引用しておこう。
(1)苦痛が存在しているのは悪い
(2)快楽が存在しているのは良い
しかし、快楽と苦痛が存在していないことに関しては非対称的に考えられる。
(3)苦痛が存在していないことは、たとえその良さを享受している人がいなくとも、良い。
(4)快楽が存在していないことは、それが誰かにとっての剥奪でない限りは、悪くはない。
さて、どうだろうか。わからん、という人は本書を読むべきである。たとえこの分野の偉大なる先達、シオランにまったく触れてないとしても、いや、触れていないからこそ読むべきである。
反出生主義者はもっと大手を振って歩くべきである。「少子高齢化社会はわれわれ現役世代の将来にとっても……」などと言う人間は、新たに作られた人間を家畜か労働機械かとしか思っていない。それが正しいこととだれが言えるのか。おれは言えない。以上。
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