反出生主義、この世に生まれ出るという不運―シオラン『生誕の災厄』を読む

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ただひとつの、本物の不運、それはこの世に生まれ出るという不運だ。起源そのものに宿っていた攻撃的要因、膨張と熱狂の原理、起源にゆさぶりをかけたあの最悪のものへの突進、そこまでこの不運の源泉を遡ることができるだろう。

おれはおれを反出生主義者ではないかと思っている。詳しいところはわからない。以前、おれはブックマークにこんなことをメモした。

やはり人類の絶滅こそが一番正しいのではないだろうか?

べつに今いるのを殺すことはないけれど、これ以上増やさなくてもいいとはわりと本気で思う。

2018/06/11 14:18

b.hatena.ne.jp

おれはこれを書いたとき「これだ」と思った。べつにだれの言葉の引用でもない。おれの内から湧き出た言葉だ。ひょっとしたらだれかの影響を受けているのかもしれないが、それを言い出したらキリがない。ここに今叩きつけている言葉そのものも影響だろう。ともかく、「今いるのを殺すほどではないが、これ以上増やさなくてもいい」。これはおれの生命観、人間世界観のど真ん中に据えてもいいように思えた。

おれのこのような考え方は、「反出生主義」という考え方に属するのかもしれない。

反出生主義 - Wikipedia

べつにおれはショーペンハウアーを読んだこともないし、読める自信もない。

だが、仏教における生老病死で「生」が一番にあること、そして老病死については避けられないが(いくら健康を心がけようが「病」から完全に逃げ切るのも無理だろう)、「生」はコントロールできること。その苦しみを断つことができるのならば、それに越したことはないだろうということ。これについては、新たなる生を寿ぐな、という意味にとってもいいように思える。一切皆苦。おおよその場合、サンスカーラはコントロールできない。もとより生まれなければ、この世からその分の苦しみは確実に減る。それは望ましいことではないのか?

……と、おれはそのような考えに凝り固まっているので、それを中和するために毒を摂取することにした。それは生命の誕生を肯定するものであろうか? 否、逆である。反出生主義の考えを見ることにより、そこに自分と相容れない部分が見つかるかもしれない。そういう毒である。おれは薬より毒を好む。

というわけで、手にとってみたのが上記Wikipediaの冒頭で挙げられている、エミール・シオランである。シオランの『生誕の災厄』、この本を読んでみた。いかにも反出生主義らしいタイトルではないか。もっとも、シオランはほとんどの書物で似たような呪詛を吐いているという話だが。

で、どうだったのか。はっきりいっておれはシオランに酔ってしまった。大雑把に、その作家なり思想家なりの側に立つか、反対側に立つかという分け方をしたとき(ウルトラクイズの二択問題など思い浮かべてくれればいい)、完全におれはシオランの側だな、と思った。おれが今までそう思ってきた外国の作家や思想家というと、ルイ・オーギュスト・ブランキであり、ミハイル・バクーニンであり、P.K.ディックであり、カート・ヴォネガットであり、チャールズ・ブコウスキーであり、セリーヌであり、ジェイムズ・エルロイであり、フェルナンド・ペソアであり……その他いろいろである。おれがそう思っているだけで、思想的に彼らが同じ側にいるとは限らない。ただ、そのリストにエミール・ミハイ・シオランの名が連なった。一冊だけ読んでそう思った。

 私たちは死へ向かって走り寄りはしない。生誕という破局からも、なんとか目をそむけようとする。災害生存者というのが私たち人間の実態だが、そのことを忘れようとして七転八倒ありさまだ。死を怖れる心とは、じつは私たちの生存の第一瞬間にまでさかのぼる恐怖を、未来に投影したものにすぎない。

 たしかに、生誕を災厄と考えるのは不愉快なことだ。生まれることは至上の善であり、最悪事は終末こそにあって、決して生涯の開始点にはないと私たちは教えこまれてきたではないか。だが、真の悪は、私たちの背後にあり、前にあるのではない。これこそキリストが見すごしたこと、仏陀がみごとに把握してみせたことなのだ。「弟子たちよ、もしこの世に三つのものが存在しなければ、<完全なるもの>は世に姿を現さないであろう」と仏陀はいった。そして彼は老衰と死との前に、ありとあらゆる病弱・不具のもと、一切の苦難の源として、生まれるという事件を置いたのである。

本書冒頭のこのくだりを読んで、自分が考えていたことを1911年生まれのルーマニア人が述べているということに、思わず昂奮したといっていい。おれの仏教理解も怪しいものだし、シオランの仏教理解が正しいかどうかもわかったもんじゃない。だが、生老病死をそのように読んだ人間がおれ以外にもいた、というのは、やっぱり驚きに値することじゃないのか。

 はるかな昔から私は、この世が自分むきに出来ていないのを、どうしてもこの世に慣れることができないのを自覚してきた。私が多少なりとも誇りを持つことができたのは、まさにそのゆえだし、さらに言えば、そのゆえでしかなかった。私がこの世に存在していること自体、聖詩が損傷し磨耗してゆく過程のように思われるのもまた、そのゆえである。

おれはよくおれはこの世に向いていない、おれは人生に向いていないというが、見方を変えれば「この世が自分むきに出来ていない」のだ。

 生まれ出ることによって、私たちは死ぬことで失うのと同じだけのものを失った。すなわち、一切を。

プラスマイナスゼロ? 否、生まれたことでマイナス、死ぬことでマイナス。マイナスにマイナスの引き算。間違っても掛け合わせてプラスに転じることなどない。

 生誕とは不吉な、少なくとも都合のよくない事件だと認めれば、一切がみごとに説明できる。だが、この見解を認めようとしないかぎり、人は理解不可能なものを甘受するか、万人のひそみに倣って、ぺてんをやってのけるしかない。

しかり、しかり。

 幼虫の身分に固執するべきだった。進化を拒み、未完成に踏みとどまり、諸元素の午睡を楽しみ、胎児の恍惚に包まれて、静謐のうちに滅び去ってゆくべきであった。

そうだ、人間という種の不幸はそこにあった。「我」に執着するものになってしまったがゆえに、苦痛を味わわねばならなくなった。悲惨である。

 存在するものはすべて、遅かれ早かれ悪夢を生む。存在よりは少しはましなものを、何か発明しようではないか。

問題は、存在そのものへ行く……といっても、シオランの書は体系嫌いでありアフォリズムによってなっていく。ポンと出てくる。拾い集めればいい。

 生まれたという屈辱を、いまだに消化しかねている。

こんな一文を、胸に刻む、なんなら入れ墨にしたっていい。

 『エジプト人らによる福音書』のなかで、イエスは、「女たちが子を産むかぎり、男たちは死の生贄となるであろう」と宣告し、「わたしは女の作ったものを打ち壊すためにきた」とまで極言している。

 グノーシス派の過激な真理志向に接していると、できることならさらに遠くまで行って、何か前代未聞の、歴史を石化させ粉砕するような言葉を吐きたくなる。宇宙大のネロ的所業に類する言葉を、物質の域にまで達した狂気の言葉を言ってのけたくなる。

エジプト人福音書』は外典どころか偽書であるらしい。べつの本ではマルキオンに触れている。キリスト教でも異端に行く、異端に行ったところに真実をすくい上げようとする。

 人はどんな場合にも、迫害される者の側に立たねばならない。たとえ彼らのほうに非があろうともだ。ただし、その被迫害者たちが、迫害する者らと同じ粘土で捏ねあげられているのを見損なわずに。

と、今までおれは反出生主義的な断片ばかり取り上げてきたが、このような鋭いシオランの洞察も魅力的ではある。

 「フランス人はもう働く気をなくしちまったよ。みんな、ものを書きたがるんだからね」と、私の住むアパルトマンの門番の女房がいった。自分がこのとき、老衰した文明一般に対して非難を投げつけているのだとは、この内儀は知らなかったであろう。

あるいは、こんなふうに。日本人も、インターネットというもので「ものを書きたがる」ようになったのであろうか。それとも、もう「ものを書く」やつすら減ってしまったのだろうか。

また、反出生主義に戻ろうか。

 自分の一生がなんの実も結ばなかったと嘆く者がいたら、生それ自体が、もっと悪いといわぬまでも、似たような事情にあることを思い出させてやるにかぎる。

このあたりにくると、ビアスの『悪魔の辞典』じゃないが、なにかしらのユーモアすらあるのではないか、という気にもなる。あるいは、アンチ・ユーモアかわからんが。

 存在しなかったほうがいい、という考えかたは、猛烈な反論をこうむる思想の一つだ。各人は、自分を内部から見ることしかできないから、必要な人間、不可欠な人間という風にわが身を思いなしており、自分こそ一個の絶対的実在だと、ひとつの全一性だと、全一性そのものだと実感し、また認知している。おのれの存在そのものと完全に同化した瞬間から、人は神として行動する。人は神である。

 内部から生きつつ、同時に自己の埒外に生きる。そのときはじめて、平静な心で、自分が存在するという偶発事は、まったく起こらなかったほうがよかった、と得心することができるのである。

が、ユーモアからこんな言葉も出てこないだろう。西洋の悲観主義者の落伍者が仏教に出会ってその表面を舐めただけ、と言われるのかもしれないが。

 人は動機なしに生きることはできない。ところで私は動機を持っていない。そして生きている。

こんな言葉すら前向きに見えるほどに。

 死は、失敗の好みを持ち、天分を持つような人間の庇護者である。成功を収めなかった者、成功への執念を燃やさなかったすべての者にとっては、一個の褒賞である。……死はその種の人間のほうに理ありとする。死は彼らの勝利なのだ。逆に死は、成功のために骨身を削り、ついに成功を収めた人間たちにとって、なんという残酷な否認、なんという強烈な平手打ちであることか!

しかしまあ、これである。「成功を収めなかった者」と同列に、「成功への執念を燃やさなかった者」を並べているところがいい。なんともいいじゃないか。それはおれのような人間。おれのような人間にとって死は褒賞。一方で、成功者は積み上げてきたものをぶっ壊される。こういうのをルサンチマンとかなんとかいうのかしらないが。

 生誕と鉄鎖とは同義語である。この世に生まれてくることは、手錠をかけられることだ。

というわけで、これに尽きる。同じようなことばかり、同じようなスタイルで書いているのだとしても、おれはしばらくシオランを読もうと思う。以上。

 

エミール・シオラン - Wikipedia

生誕の災厄

生誕の災厄

 

 

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