また寄稿させていただきました。
また反出生主義の話になります。
お読みくだされば幸いです。
お読みくださいました?
お読みくださったんすか?
……というわけで、「反出生主義者とは何か」と題されているけれど、内容的には「反出生主義ではないものはなにか」というような内容にもなっているかと思う。反出生主義は、人間存在の根源であるところの「生」を取り扱う以上、いろいろな問題と隣り合わせになっているのは避けられないことである。
そして、それら隣接する考え方との癒着を見出し、そこに批判が加えられることもある。そういうこともある。ただし、おれは峻別したいのだ、できるだけ。おれの考えられる限りでは。「それは反出生主義と関係しているかもしれないけれど、厳密には反出生主義の思想ではないのです」と。
そんなことを、書いた、つもりだ。
そして、書いた上で、さらに書いておきたい。少なくともおれの反出生主義は幸福を追求するものである、と。
「え、もう苦しみに満ちた人類を生産するな、というのに?」と疑問に思う人もいるかもしれない。
おれが考える幸福とは、もう生まれてしまった人類にとっての幸福である。今、この瞬間生まれてしまった赤ん坊にも適用される。この地獄に生まれてしまった同胞だ。せめて、不幸を減らそう。そういう思いである。
今、不幸な人生を歩んでいる人にも、幸福があって欲しいし、どんな人にも不幸から遠ざかってほしい。幸福や不幸が二元的に決めつけられるものではないとしても、そうなのだ。生そのものが苦しみなのだから、せめてその中でも苦しみを味わってほしくはないのだ。
ほしくはない? いや、ストレートに言えば「味わいたくない」だ。おれの幸福、あるいは不幸ではないことは、おれにとって切実な問題だ。ただ、この切実さは、あらゆる生きている人間に適応されるべきだと思う。夢物語だ。それでもいい。
そして、それが実現されない限りは、新しく人類を生産するのをやめよう、というのがおれの反出生主義だ。幸せでない人間のもとに、新しく幸せでない人間を生産したら、この世はさらに不幸で満ちてしまう。それは悲しい。
「子供を生むことが幸福だ」という反論もあるかもしれない。それはそうかもしれない。けれど、それはあなたの幸福にすぎない。生み出された子供には選択肢すらなかった。ここに非対称がある。これを暴力とまで表現する人もいる。おれも、この非対称は無視できないと思う。
あるいは、人類が存続してきたのは子供を生み出してきたから、われわれもそうするべきだ、という意見もあるだろう。だが、それはオッカムの剃刀に喉を掻っ切られる。「である」から「べき」は導くことはできない。そのように思う。
考え出すと止まらない。とくに、人類の幸福を追求するといってしまうと、それはもう人類史の抱えてきた大難題である。はっきりいって、自分の手にはおえない問題だ。だったら、いっそのこと、人類というものを断絶してしまってもいいのではないか。うーん、それはちょっと敗北主義のような気がしないでもない。でも、いったん、止めてみる。人類の営みとして止められないとしても、考え方として、いったん立ち止まってみる。反出生主義には、それだけの価値があるように思うのだが、如何?