今日は朝、起きることができた。たった三十分しか遅刻しなかった。が、そんな日に限って暇なのでいま、これを書いている。頭のもやもや感が薄まっているので、双極性障害者であるところのおれの今回のうつ状態は脱する方に向かっているように思う。
うつ状態というと、「死にたい、死にたい」という希死念慮みたいな想念や、自己否定感に苛まれたりするのをイメージする人もいるだろう。いや、実際にそのようになる人もいるだろう。
おれの場合はちょっと違って、身体が麻痺したように動かなくなるのと同様、考えることもできなくなる。眠っているといえば眠っているのかもしれないが、ともかくなにも脳が働いていない。
そして、ちょっと頭が動き始めると、「こんなので生きている意味はないな」とか、「労働者として欠陥品だから死ぬしかないのだろ」などと思うようになる。思えるようになる。
人間は、何でできているのか。おれは双極性障害という宿痾に出会ってから、脳という臓器についてよく意識するようになった。そして、脳の命令によって手足などの身体が動いていたことがよくわかった。が、一方で、身体が先で脳が後、というような話もあるので、脳一辺倒の支配体制というわけでもないようだ。
問題は、もう一つあるものだ。それが「こんなので生きている意味はないな」とか考える、それだ。「会社に迷惑はかけられない」とか、「医者に言ったらこの症状が一週間続いたことを話そう」とか、「ダービー卿チャレンジトロフィーのカラテの回避は残念だ」とか思う、それはなんなのか、ということだ。
それが脳で行われていることは知っている。多分そうだろう。しかし、それはおれが先ほど書いた、身体に命令したりしている臓器としての脳そのものではないな、ということだ。
それを意識というのだろうか。心、あるいは、言葉かもしれない。
トロイカ体制のようだと思う。心・技・体。違うか。身・口・意。違うか。努力・友情・勝利。もっと違うか。
脳、心、身体。この分解でいいのだろうか。わからない。分解していいのだろうか。一無位の真人を看ていない人間の考えることだろうか。
もし、三つに分解できるなら、どれがヘゲモニーを握っているのだろうか。脳が死んだら文字通り脳死で、それはもう人の死だという話にすらなる。とはいえ、身体が死ぬ、たとえば心臓が止まったら、これはもう死だ。では、心が死ぬ、意識が死ぬ、言葉が死ぬとはどういう状態だろうか。これはどうも脳の死に近いもののように思える。
死から考えるのがおかしいのかもしれない。かといって生を考えたところで、やがて死ぬ身にとって切り離せる話でもない。あるいは、霊性というとまた意味は違ってしまうが、死すら切り離せるなにかも自分を構成している一部分である、などということもあるのだろうか。
こういった話についてなにか本を読んだ気もするが、覚えていない。
とくに結論もない。