栗原康『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』を読む

 

角川武蔵野ミュージアムで見かけて、「あれ、おれ、栗原康の本はほとんど読んだつもりだったけど、岩波新書のこれ読んでねえな」と思った。思ったので、読んだ。

いつも、栗原康節だった。岩波新書でも変わらない。ヒャッハー。ともかく、このアナキズム節が世の中に広まればいいなとか思ってる。おれのなかに充填されて、生の拡充が実現されればいいなとか思ってる。いいなとか思ってる場合じゃねえ。やるなら今しかねえ。そうに違いない。

でもって、この本からもいくつかいいところをメモしておこう。

たとえば、反体制的なやつ、アナキストだったりするやつは大企業を嫌う。国際的な大企業が儲けるために人をこき使い、環境を破壊するのを嫌う。人をカネの奴隷にしてはいけない。でも、こうなってはまずい。

……でも、だからといってそこに逆ばりのモラルをたてるようじゃ、ダメなんだってことだ。

 だって、この世界を変えるためには、エコな生活じゃなきゃいけないんだっていって、マックにいくなとか、肉を食っちゃいけないとか、コンビニをつかうなとか、添加物まみれの食いもんをくうなとか、そんなただしいことをいわれたら、めんどうくさいでしょう。カネ、カネっていわなくなっただけで、けっきょくただしいモラルや生きかたを強いられちまう。しかも、そうやってエコ、エコっていってる連中ってのは、それがぜったいにただしいっておもっているぶんだけ、使命感がつよいんだ。マジこわい。ただしくあれ、ただしくあれ、エコな規律をまもって生きろ。そんなことをいわれていたら、車ひとつ燃やせなくなっちまう。きっとマックの焼き討ちなんて、とんでもないっていわれるだろう。CO2が排出されちまうからね。チャッハハ!

「逆ばりのモラル」に陥ると、やべえ。使命感のつよさ、やべえ。カネ、カネの価値観ん縛り付けられるのもやっかいだが、「ただしさ」もやべえ。そこんところのバランス……バランスなんて言うべきじゃねえかもしれねえ。

ただしいモラルをふりかざして、はじめからなにもおこらないようにしてしまうのはもうやめよう。だれかが失敗したら、おまえがわるい、おまえがわるいっていって、よってたかって問いつめて、謝罪させようとするのはもうやめよう。こりゃダメだァっておもったら、ヒャッハー!っていって、わらいとばせばいい。いつだって、こころの奥底にそういうユーモアをもっていることができるかどうか。きっとそれが、なんどでもあたらしい自分にであえるかどうかの分かれ道なんだとおもう。風がかたりかける、うまい、うますぎる。コンビニおにぎり、マジサイコー。全身全霊で大失敗だ。ディス・イズ・プライド、イヨーシッ!

「コンビニおにぎり」については、大量生産、大量消費の食のあり方に疑問を持ったエコ・アナキストの人が、フルーツだけで食べていくことにして数年、さらにその自分の執着を疑問に思い、ちょっとコンビニおにぎりを食べたら、うまい、うますぎる、という話だ。かといって、その人がフルータリアンをやめたわけじゃないが、自由を求めるために自分で自分を強いることも不自由につながるって話だ。

もっとも、おれにはもとからモラルとただしさがない人間なので(これは幼少期から感じていたことだ)、そういう真面目さとは無縁なんだけど。ムハー。まあ、ユーモアが大切だってのは本当に、心底、そう思う。

おれは13年前にこんなことを書いた。

goldhead.hatenablog.com

うーん、無理かなぁ。もう、本当に真面目な人ってのはいる。すごいストイック。一本道、思考停止。でも、人間、どっかしら隙があるんじゃねえのか。弱みはないのか、悪さはないのかって。で、その弱みや悪さにつけこんで、そいつを痛めつけたり、洗脳から解くなんて話じゃないんだ。ただ、そっからなんか愚か者同士話しあえる、糸口にならねえのって。それで、あんまり笑って話すところに、殺し合いみてえなことはなんねえって、俺はその程度には、人類について楽観してるし、あるいは信じている、といえるかもしれない。もちろん、間違いの総量もバカになんないし、そっちが多いかもしれねえけど、まあ今のところ、まだ滅んでねえじゃんって。

人間、弱いところで繋がれねえか。

 でもさ、人類の人種も文化もなしにさ、どっかしら人間同士の落としどころみてえなもんはあると思うよ、俺はそう思う。そう妄想する、そう希望する。
 で、それはなにかっていうと、愛、だとか、正義、だとか、思想、だとか、あるいは科学、とかでもなしに、もっとろくでもないもの、人間の弱さ、卑怯さ、怠惰、汚さ、ずるがしこさ、いい加減さ、そんなもんじゃねえのかって。強さより弱さ、正しさより間違い、美しさより醜さ、そっちで手を繋げるんじゃねえかって妄想だ。そこが落としどころじゃねえのって。

おれはたぶん13年前にはバクーニンにもクロポトキンにも大杉栄一派にもギロチン社にも影響を受けていないと思うので、アナキズムにも接近していなかった。接近といっても、本を読んで、感想を日記に書き付けるくらいだが。まあそれでも、なにかしら、こういうところはもとからあった。そう思う。

 えっ、秩序をはみだすのは、犯罪だって? みんなにきらわれてしまうって? 上等だよ、上等だよ、ひらきなおるわけじゃねえが。現にあるものをブチこわせ。主人でもない、奴隷でもない、民衆の生をつかみとれ。新天地にむかってあるきだせ。それはとても孤独なことなのかもしれない。おいら、ゴロツキ、はぐれもの。でも、ひとたびその一歩をあゆみだせば、かならずあのメロディがきおけてくる。もうなんにもこわくない。過去の民衆たちがおどりだす。おいらもいっしょにおどりだす。つられて、だれかもおどりだす。ユートピアだ。コミュニズムとは絶対的孤独である。それは現にある秩序をはみだしていこうとすることだ。かぎりなくはみだしていこうとすることだ。あらゆる相互扶助は犯罪である。アナーキーをまきちらせ。コミュニズムを生きてゆきたい。

「僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけがいやなのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものがいやなんだ。そして、一切そんなものはなしに、みんなが勝手に躍って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ」……ってのは大杉栄。ほんとうに大杉栄の言葉ってのは、時代を超えて、わかりやすく、響いてくる。アナーキー、まきちらしたくなるよな。

と、なんかあれだ、『アナキズム』の新書の読みどころは、ほかにもたくさんあって、エマ・ゴールドマンの評伝もあり、ベ平連の話もあり、まあ勉強になるぜ。

あと、最後に、本書で繰り返される、おれがいいなと思った言葉をメモしておく。

アナキストはムダがいのち。

 

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