アナキズム・アンソロジー『神もなく主人もなく』1巻を読む

 われわれの若い新参者たちは、次のことを心に銘じて身を処してもらいたい。社会主義は政府中心主義と正反対のものであることだ。これはわれわれにとって、主人と奴隷とのあいだにはいかなる社会も存在しない、という戒律と同じほど古いものなのだ。
P=J・プルードン

 このごろ見るようになった、あまり好きじゃない比喩がある。○○ポルノ、というやつだ。結果として自慰行為のネタにしかならないようなものを見下し、揶揄する表現だ。キャリアポルノ、脳ポルノ……。

……しかし党派は、一定の諸原則を強制し、それらをいっさいの攻撃から守ろうとするとき、結社ではなくなる。この瞬間がまさに党派誕生の日である。それは、党派として構成された(生まれながらの)社会、死んだ結社である。それは固定観念のごときものとなる。絶対主義の党派としては、その原則の無謬性が党員たちに疑われるのを認めまいとする。
マックス・シュティルナー

 おれはポルノという言葉がたいへん好きだし、ポルノも好きなので、そんなたとえに使ってくれるなと常々思っている。

……私は、私をとりまく男女すべての人々が等しく自由であるときにのみ、真に自由である。他人の自由は、私の自由の制限もしくは否定であるどころか、反対にその必要な条件であり、確認である。私は他の人々の自由によってのみ真に自由となり、かくして私をとりまく自由な人々の数が増し、彼らの自由がよりひろがり、より大きくなればなるほど、私の自由もより広く、より大きくなる。
ミハイル・バクーニン

 とはいえ、おれはこの古いアナーキズム・アンソロジーを読んでいて、「あ」と思ったのだ。「おれ、これ読んで気持よくなってるだけじゃないの」と。

 第三身分はこういった。第三身分とは何か? 無だ! それは何であるべきか? すべてだ! と。われわれはこういいはしない。労働者とは何か? 無だ! それは何であるべきか? すべてだ!
P=J・プルードン

 自分が生まれるよりも昔の話。このアンソロジーですらそうだ。そんな時代の、敗れ去ることがすでに知られている(マルクスvsバクーニン?)、そんなやつらの言葉。おれの実生活になにを与えるものでもない。おれが成長することもない。活動に身を投じることもない……。

 私は経済的・社会的平等の徹底した支持者である。私はこの平等の外では、自由も正義も人間の尊厳も道徳性も個人の安楽も国民の繁栄も、虚言以外の何ものでもないと知っているからである。
ミハイル・バクーニン

 あまりにも素朴すぎるかもしれない科学への信奉。なぜかわからないが犯罪すらなくなると信頼する自分たちの理想の教育……。一顧だにされないかもしれない虚言、かもしれない。だがしかし、この現し世のおれは、彼らの言葉が心地よくてならない。

 他の何びとにもまさってこの陰謀方式の体現者であった人物、この方式への献身を獄中生活で払った人物は、その死の前夜に、、彼の全綱領である次の言葉を放った、神もなく主人もなく! と。
ピョートル・クロポトキン

 言うまでまでもないその人物、クロポトキンがその考えを過誤としながらも上のように引用したブランキも好きだ。おれは古いアナーキストが好きだ。共産主義を、その萌芽の時代に失敗すると予言していた連中が好きだ。昭和初期の革命右翼が好きだ。なんの脈略があろうか。あるならあるでいい。ひょっとしたら敗れ去ったものだからかもしれない。
 おれには学がないから集産主義がなんなのかもよくわからない。ただ、どこかにロマンのようなものがあればいい。優雅で感傷的な革命家たちの言葉があれば……。禅にも浄土真宗にも求めるものはただ自由。そうでなけりゃ興味もない。アナーキズムに求めるものもただ自由。おれはともかく自由になりたいんだ。自由でありたいんだ。それ以外のことになんの価値があるんだ……。
 
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