アナーキストと女相撲 ― 映画『菊とギロチン』を観る

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みなとみらいのブルク13で『菊とギロチン』を上映している、と知ったのは何がきっかけだったか。金曜の夜、あるいは日付が変わっていた時刻かもしれない。ふと調べてみる。上映は一日に一回、そしての時間は13:25~16:45。目を疑った。一般的な二時間映画を観るときですら、手洗いと眠気を心配するおれにとって、これはかなりの挑戦だと思った。が、ジャック&ベティには悪いが、この長さものを観るのならばブルク13の椅子がいいだろうと思った。深夜の静かなハイも手伝って、おれは座席予約した。

そしておれは珍しく休日の午前中、それも早くに起きた。正直、眠かった。よくない夢を見て、アラームより先に起きた。図書館に行き、それから映画館へ。だが、しかし、異様に暑かった。おそらく今年一番の暑さだろう。アパートからすぐそこのバス停に行くまでに汗をかいた。バスを数分待ち汗をかき、エアコンのあるバスの中でも汗をかき、桜木町を歩いて汗をかいた。命まで奪われるのではないかという暑さと思うた。図書館の中でも汗が出た。本を返し、本を借りた。またブルク13まで歩き汗をかいた。「とてもじゃないが、長時間の映画を観るだけの体力が残っていないのではないか」と覚悟した。

が、おれは『菊とギロチン』をはじめから終わりまで、夢中のままに観ることができた。長時間作品だけあって、劇場のクーラーで途中から身体が冷えて困ったというのはあるが、それ以外はなんの問題もなかった。スクリーンで中濱鐵が、古田大次郎が、そして女相撲の力士たちが躍動した。相撲甚句や「イッチャナ節」、なんとも知れぬがなにか知っているような民族音楽もすばらしかった。秋を秋、冬を冬と感じさせる画面に見入った。

しかし、おれにとってはなによりもギロチン社が映画化されていることに胸躍った。『日本暗殺秘録』でも映画化されているし、ほかに作品もあるかもしれない。だが、この2018年に、平成とかいう時代の終わりの年に、スクリーンで観られることに興奮した。ミーハー、といわれればそれまでかもしれない。たとえば、新選組のファンが新選組の映画を観に行くようなものだ。

そしてまた、この映画、大杉栄の存在感をも描いてくれている。その吃音、そして、それを真似る村木源次郎に和田久太郎だ。これはもう福田戒厳令司令の暗殺未遂まで描かれるんじゃないかと思ったけど、まあそのシーンはなかったのだけれど、いや満足よ。それにしても村木源次郎が井浦新なんよ。若松孝二監督の『実録・連合赤軍』に出たかと思えば『11・25自決の日』では三島由紀夫を演って、どれもよかったよ。和田久太郎の役者さんもよかったな。ズボ久、久さんってこんな感じだったのかな、とか思った。

いや、しかし、なんといっても中濱鐵に古田大次郎よ。中濱鐵は東出昌大よ。こないだ羽生善治演ってた人が、中濱鐵なんよ、それが「杉よ! 眼の男よ!」言うんよ、たまらんね。破天荒で夢想主義的で、自由奔放でいいかんげんで、それでいて仲間に信頼される中濱鐵よ。リャクも決まってるよ。

それで、主役と言ってもいい古田大次郎よ。『死の懺悔』のナイーヴさがしっかりと演じられているのよ。その中濱との対比がいい。演じているのは寛一郎という役者さんで、初めて見る名前だと思ったら、なんと佐藤浩市の息子というのだから驚きよ。これはいい役者さんになっていくと思うね。

でもって、この映画、半分はアナキストの話で、半分は女相撲の話、と言えるかもしれない。いや、半分、半分というのは便宜的な物言いであって、この二つがガッチリと重なっていて、どちらの場面も魅力的だし、重なり合う場面も魅力的なんだよ。それはともかく、女相撲女相撲も実在した。実在した女相撲。そこに、時代に、男に虐げられた女たちが「強くなりたい」と願う気持ちがあって、そして、相撲がある。相撲は日大相撲部に指導を受けたというが、迫力ある取組をみせてくれるのである。もちろんおれはリアルな女相撲を知らないが、リアルなのだ。これをしっかりと見せてくれる(なにせ長い映画だ)。その説得力あってこその、それぞれのバックボーンであり、運命があるのだ。

女相撲側の主役というと花菊ともよ役の木竜麻生さんということになろうか。顔立ちや雰囲気のどこかにのんさんを思わせるところがあり、また別のだれかを思わせるところもあるが(べつに悪く言ってるわけじゃないぜ)、だんだんと増していくパワーと存在感、ありがちな言い方になるが、体当たりの演技というものに引き込まれる。もちろん、十勝川役の韓英恵、そして嘉門洋子もよかった。

一方で、アナキスト女相撲に敵対する側というのも、これもしっかりと描かれていた。単調な悪役ではないのだ。在郷軍人会の大西信満(この人も『実録・連合赤軍』に出てたな。だいたい「井浦新」、「大西信満」ときて「大森立嗣」などと名前が並んでいたら、いい映画に決まっているのだ)、そして花菊の夫役の百姓など、そちらにもそちらの、事情がある、というと軽いか、やはり同じく虐げられている身であるところがわかる。その狂気には原因がある。そこが描かれているあたりがいいのだ。そのうえで、ギロチンしかねえよという、自由を追い求める方に感情移入するのだ。自由の国にでは兵隊に取られて人を殺したり人に殺されることもないし、百姓が貧しさの中に沈むこともないのだ。そう思わねえとやっていけねえという、そこんところだよ。そこんところに、中濱鐵も古田大次郎も身を投じて死んでいったんだよ。

花についてもその通りである。僕はあまり花の種類を知らないが、たいていの花なら好きである。花を見ることも好きである。しかし、あまり毒々しい色彩の花や、妙に誇らかな花だという感じを与えるようなのは好まない。花にも貴族と平民との別がある、あるのではなくて観る人がそうした感じを起こすのだが、自分はそのなかの平民的な花が好きだ。しかし、無心の花にまでこうした区別をするのは可哀そうである。というよりも、区別する自分の心が悲しい。

って古田も書いているよ。

そして、近藤憲二は古田大次郎の最期をこう描いているよ。

棺には古田君の好いていた菊の花が一ぱいに詰められた。棺の傍らにはススキが立てられている。同志のせめてもの手向なのだ。

ああ、この「菊」の二重の意味よ。あるいはこの映画では三重の意味よ。たまらんよなぁ。

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パンフレット読んでいたら、監督がこの本について触れていた。女相撲についても触れているのだ。

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……そういえば、朴烈と金子文子の映画も近頃つくられたのだっけ。

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大さん(古田大次郎)は、全く珍しい人格者だ。君は僕に対して畏怖心のような感じを抱いたといふが、僕は又、古田君に接してゐると、常にさういふ氣持ちを感じた。自分の濁つた血が、あの清浄な血に畏れるんだな。中濱の様な奴でも、古田君には粛然として「古田さん貴君は」といはざるをえなかつたんだからな。僕は、尊敬はしたが、「よう、どうしたい」といふ風に親しめなかつた。

和田久太郎から見た古田、そして中濱。「中濱の様な奴」というところに中濱の様な奴という感じが出ていて面白い。

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『鐵君!』と呼ばるれば
『何んだ?大さん』と答へる
『……………………』

『大さん!』と呼べば
『何んだい?鐵君!』と――
『……………………』

縦令言外の意味が他の誰にも
皆目解らなかつたにせよ!
兩人の間ではそれで充分だつたね!
何時もそれ以上語る必要はなかつたね!
夫れ以上語る言葉を俺たちは何も持ち合さなかつたね!

 そして、「菊」。

 古田ハ死刑ヲ執行サレル時特ニ乞フテ菊ヲ求メ其ノ菊ヲ持ツテ絞首台ニ上リ菊ヲ抱イテ死ンデ行ツタト云フ事デアリマス(此間被告誓ノ頬ニ涙数行下ル)時ハ方サニ秋デアリ何モ知ラヌ人達は此古田ノ態度ヲ詩人的ナ態度ダトシテ當時人々ハ之ヲ愛シタノデアリマセウガ此古田ガ菊ヲ持ツテ死ンデ行ツタト云フ事ニ付テノ眞ノ意味ヲ知ツテ居ルモノハ自分ノ外ニハ誰レモアリマセヌ

 菊トハ自分ト古田トノ間ノ暗号デアリマシテ菊ハ即チ皇室ノ紋デアリマス、目的ヲ遂ケ得ズシテ菊ヲ抱イテ死ンデ行ツタノデシタ