松下竜一『ルイズ 父に貰いし名は』を読む

 稲垣足穂曰く。

 現代の人たちは、自分の死とか、親や友人の死ということについては、理性よりも大事にしているようだけれども、人間が生まれた「時」と「場所」ということについては、何も感じていない。どだいそれを不思議と感じないのがおかしいんだ。
密教的なもの」

 また、吉本隆明曰く。

存在した(生まれた)ときに場所としてそこにおかれたということは文句なしに絶対的なもので、これを動かすことはできない。こういう絶対性というのは、一般的に考えられているほど簡単なことじゃないよ、と僕は思ってきたわけですが、やはりそれが根本にありますね。
『貧困と思想』

 というわけで、というわけでというわけではないが、松下竜一の『ルイズ 父に貰いし名は』を読んだ。1922年にルイズと娘に名付けたのは大杉栄である。母は伊藤野枝、きょうだいに魔子、エマ、エマ、ネストル、さらには異母兄弟もいる。
 ……突然だが、このところ体調がわるいので、手短に適当なメモだけ残す。松下竜一はおもしろいので買って読め。あと、とりあえず表記は適当……では申し訳ないけれども、ルイズさんは本のタイトル通りルイズとするです。

ルイズ 父に貰いし名は (講談社文芸文庫)

ルイズ 父に貰いし名は (講談社文芸文庫)

●で、読みながら、冒頭に引用したようなことを考えずにはおられなかった。いや、なに、人間何歳になったら、もう自分というものは自分だし、自分の顔に責任を持てだかなんだか言うけれども、上の言葉を述べたのはいずれも知の巨人的人物の、さらには晩年近くの言葉である。そしておそらくは、己とともに人間全部に向けられた言葉であろう。人間だれしも、だ。

●だが、本書で取り上げられるのは、その生まれが極端に特異であった人といっていい。「テンノウヘイカに弓引いた極悪人」の娘である。祖母(野枝の母)に育てられながらも、その目からは逃れられない。そして子供時代は東洋太平洋戦争に向かうまっただ中である。ルイズあらため留意子は幼いうちに両親を虐殺されているのだから、その記憶すらない。しかし、そのレッテルたるや強烈である。ただ、その中でも両親を敬慕する人間ももちろんいる。そんななかで育っていく辛さというのはなかなかに計り知れない。ただ、その計り知れなさを、取材の終わりに「いまだから白状しますけど……一時は、あなたの顔を見るのも厭でした」と言われるまで書ききったところがすげえ。

●ルイズは勲章をもらった元軍人と結婚する。傷を負っていたので退役していたが、働き先がよりにもよって甘粕正彦が君臨する満州というところが偶然ともいえなんともである。そこでルイズが目にするのはむごたらしい日本人による人種差別であり、あわれな慰安婦達の姿であり、貨物のように輸送される中国人労働者たちだったりする。このあたり、時と場所は違えども、金子文子の見たものを思わずにはおられない。そしてまた、『アーロン収容所』とまったく同じような裸のエピソードもあり、なんとなく「白人と黄色人種間では」と思っていたことが、黄色同士でも起るものか、などと思う。さて、このあたりでこういう感情を抱くこと、見る目を持つこと、やはり血なのか環境なのか、べつに論じる必要などないだろう。

●戦後も悲惨なのだが、ひとつのエピソードが気になった。戦後、ルイズの夫は東邦電力(後の九電)に勤め、労働運動にも参加するのだが、その際に紹介されていたものだ。

 一方、全国規模では、1946年(昭和21年)4月7日に日本発送電及び九地区配電会社十万人の従業員を結集する日本電気産業労働組合協議会が、全国からの代表二千人を集めて東京の日本赤十字社講堂において結成大会を開いた。
 そして早くも、十月には電産協は会社並び政府に対して「生活費を基準とする最低賃金制の確立」等三項目を要求して闘争に入ることになる。十月十八日には全国いっせいの五分間停電ストが決行され、泣く子も黙るGHQの電気も切ったし、皇居の電気さえも切って闘争貫徹の姿勢を示した。
 このとき獲得した給与体系は、電産の賃金方式として戦後の労働界の賃金制度に大きな影響を及ぼしたもので、〈戦後三十何カ年間電産のこの水準に達した組合は一つもないといえるし、そういう空前絶後の成果をおさめた〉(『20年のあゆみ』全九州電力労働組合)のであった。輝ける電産は戦後初期の労働運動を牽引する役割を担ったのである。

 もちろん、労働者が当然の権利を要求するのはいいし、五分の示威行為とはいえGHQと皇居の電気まで切ったというのは少し痛快な気もする。
 ……のだけれども、なんかさ、昨今の東電だなんだの話だの、あるいは五・一五事件の裁判ですら「電気事業は地域的に営業区域が決定せられて居り、電力販売地域が限られて居りますから、販売価格に付き自由競争は行われず、独占価格が供給せられるのであります。其処には事業の改革は等閑に付せられ、為政者との結託による販売区域の獲得のみが専念せらるる結果となります。資本主義産業を弁護する理由の最大なる理由たる自由競争による産業の改良進歩と云うことは毫も省みられず、暴利を是事となすに至り、資本主義の最悪なる形のみが存して、其の優秀なる部分は存しないのであります」って指摘されていた(まあこれは労働者側の問題ではないが)こととか思い浮かんでくると、若干「うーむ」という気にもなる。うーむ、ってね。

●そのルイズの旦那、やはりなにか戦争体験やいろいろなものを抱え込んだせいもあろう、おそらくはアルコール依存症およびギャンブル依存症となり、そうとうに苦しいことになる。だが、そこでも子供を育てながら力強く生きて行く主人公のさまというのは、筆者の得意とするところであろうか。

●本作は、ルイズの半生記ではあるが、もちろんその兄弟姉妹、家族の話でもある。中でも強烈な印象を与えるのは長女の魔子(真子)であろう。少し年長で、両親を失った時に七歳。おそらくはいちばん両親の存在を意識し、また、意識され、アナキストたらんとし、没落していく。

●真子の二人目の夫というのが、腕の立たない、はっきりいってまわりからよい評判のまったく聞かれぬ博多人形師のようなもので、作者は彼に取材するのは正直気が引けるとまで書いている。エロ人形作りくらいしかできずろくなかせぎもなく、愛人も借金も作り、ひたすら真子に苦労を重ねさせる。世間的にはろくでなしと言われてもしかたないかもしれない。

●が、「私」(松下竜一)が出てきて話を聞くかたちのここが、『ルイズ』のなかで個人的に一番のところのようにも思えた。真子の夫、かれの父もアナキストであり、彼自身もそうありたかった。しかし、悲しいかな、それで名を成すだけの才もない。そして、実際のところは真子とてそうだったのだと。だからこそ、互いの中に似たものを見出したのだと。
 そして、彼はこんなことを打ち明ける。

 わたしが一番腹立たしかったのは、真子と神さん(引用者注:真子の最初の旦那)を別れさせて、もっとちゃんとしたアナキストと再婚させようという計画が、アナキストの連中の間で進行していたという事実です。嘘じゃありませんよ。誰と結婚させようとしたのか、誰たちが画策したのかわたしはみんな知ってるが、まあいまとなっては個人的な名は伏せておきましょう。
 まるでこれでは、真子を犬猫扱いじゃないですか。血統を護るために血筋のいい者同士を掛けあわせようという考えなんですからね。わたしはそのとき、はっきりとアナキストの人たちに幻滅しましたね。

 
●元競馬ファンとしては、犬猫というよりサラブレッドじゃないですか、といいたいところだが、それでも人間を畜生扱いしているのには変わりないか。もちろん、これはこの藤本氏の言うことであって、事実かどうかはわからんが……、なんか事実じゃねえの? と、いくらかこのあたりのアナキズム模様を描いたものを読んだ俺には思える。大杉残党らの大杉の遺児たちに対する深すぎる愛情、大きすぎる期待……。そしてなんというのだろうか、これといった組織論を(あえて?)持たず、なにか家族的な人間関係の中だけでやってきたように見える大杉らのあり方が、なにかそうなってしまってもおかしくないように思えるのだ。夭逝したネストル(いずれネストル・マフノ関係の本も読みたいが)を、そのまま「栄」と改名させたのはどういう事情だったのか。

●そしてなにも、それはアナキストに限った話ではないな、とも。あるいは、俺とてたとえば、長男ネストルがもしも成長していたら、どんな人間になっただろうとか想像しないではない。さらにいえば、彼らにとってみれば目の当たりにしてきた人物の子であろうし、わからんではない。わからんではないが、やはりおれは「幻滅しましたね」の方が正しいよな、と思う。そんなんでなにかこう、アナキズムが栄えても、そりゃ大杉栄教団じゃんって。

松下竜一がどう判断したのかは明言されていない。ただ、この藤本氏が貧しい中でガリ版で出していた『抵抗者』という小さな新聞から彼の文章をわりと長く転載している。また、取材を決意させたのも、その小新聞の存在だったわけだが、このあたりは著者の経歴とも関係するだろうが、デビュー作から読んでおらずようわからない。

●さて、まとめようもないので、話をルイズに戻す。

 ようやくこの頃になって、野枝への評価が高まってきているが、しかし留意子はどうしても母の野枝より祖母のウメの方に心魅かれてしまう。叔母のツタから聴かされる野枝の思い出話は、彼女の身勝手なエゴイストぶりばかりを伝えるのだから。……(略)……そういう傍若無人な強さが野枝をあそこまで走らせたのだと評価すべきかもしれないが、その犠牲となったウメやツタを知っている留意子には、やはり宥せない気持ちが残る。

 このあたりのことである。革命家のありようというか、これを運動家からみたら「小市民的!」ということになるであろう一方で、やはりたしかにこの著者の目線を通して、読めば、この伊藤野枝の母ウメ、歴史には名を残さないであろう女性がいちばん立派なようにも思えてくる。娘が天下の大罪人のように言われ(実際は被害者なのに)、孫やひ孫の面倒まで見て生き抜いた人が。
 が、しかし、なのだ。なんだろう、かといって、みながその忍従に甘んじて、あまりに先駆的な、時代を突破するような考えとか、行動とか、そういうもんが起こらんかったら、人類つまらんというか、先に進まんというところもある。だが、先鋭しすぎて刺す先間違ったりもするし、なんとも言えん。その前衛だか先鋭だかの裏には、面倒をかけられながらも(場合によっちゃ面倒というレベルじゃあないが)、それを支えた人がいるよ、とか、あるいはそういう犠牲も必要なのだ、とか、まあとかく簡単にまとめられるものでもない。そのあたりは『久さん伝』の大きな問い掛けともなっている、主義者に関係する者の緘黙という話にもつながろう。
 で、このあたりの、揺れるなにかようなものは同じ作者の『狼煙を見よ』の方でますますはっきりと表れているようなところもあって、今日はおしまい、と。

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