暴力と権力と 酒井隆史『暴力の哲学』を読む

 

暴力の哲学 (河出文庫)

暴力の哲学 (河出文庫)

 

おれはかなり暴力的なものをうちに秘めている人間のように思える。映画『ジョーカー』を観れば、その暴力にウッキウキになる。街を歩いていて肩がぶつかって、暴力を振るわれたら、絶対に反撃して、自分がどうなろうと相手の片目を必ず潰してやろうと心に決めている人間である。……さて、前者の暴力と後者の暴力になんの違いがあるのか。そもそも暴力とはなんであるか。おれにはよくわからない。よくわらないものはわかるようにしたほうがいい。そういう理由でこの本を読んだ。

……読んだが、なにやらおれの知的水準からすると本の方がむずかしすぎて、いまいちわからなかった。わからないなりに、気になったところをメモして、いずれおれの個人的武力蜂起あるいは武力放棄の参考にしたい。まあ、嘘だが。

「序」にこうある。

「暴力はいけません」という漠然とした「正しい」モラルこそが、暴力の蔓延を促進させ、暴力の圧倒的な非対称性を容認させ、暴力への無感覚を肥大化させているひとつの動力なのです。

なかなかに挑発的ともいえるかもしれない。おれはそれほどそうとは思わないけれども、この、現代の日本社会いうもの「暴力はいけません」が圧倒的にのしかかってるように思える。それが暴力へのプラスになっているとは……。

著者はマーティー・ルーサー・キングの話をする。

キングは非暴力直接行動を、ただ「平和」的であるような手段とは決してみなしてはいませんでした。ここには戦術のみならず、平和そのものについての考え方の根本的な違いすらひそんでいるようにおもいます。つまり、平和とはたんに「波風の立たない」状態なのか、それともダイナミックな抗戦状態すらはらんだ、絶えざる力の行使によって維持、拡大、深化されるべき力に充ちた状態なのか。

そしてキング自身はこう述べている。

非暴力直接行動のねらいは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるをえないような危機感と緊張をつくりだそうとするものです。

平和いうものが、たんに「波風の立たない」状態なのか。おそらくはノー。今井絵理子の言う「批判なき政治」、おそらくノー。

ガンディーはこう述べたという。

人は消極的に非暴力であることはできません。

なんか暴力の話を読もうとしていたら、非暴力の話になっている。でも、なかなかにそういうものかと思った。非暴力こそが最も積極的な力、とさえいう。となると、暴力いうものは、非暴力(直接行動)と比べたら、積極的ではない、惰性とは言えないかもしれないが、真のパワーではないのかもしれない。

話は変わって権力のようなものの話。

じっさい、これはだれもが直感的に知っているように、権力は直接に合法か違法かのコードにしたがって行動するかといえばそうではない。たとえばおなじことをしても捕まりやすい人間とそうでない人間がいる。ありていにいえば支配層とどれほど近いかによって、ある行為が犯罪とみなされるか、ひいては逮捕されるか、起訴までいくか、は左右されます。権力はむしろ合法/違法というカテゴリーを活用しつつ、違法なふるまいをふくめた人々の活動総体を、空間の配分や「犯罪集団」との「癒着」を通して管理するのです。

例の交通事故についての「上級国民」。あるいは、支配層と近いどころか、支配層そのものが「犯罪とみなされない」現状というものを思わずにはおれられない。われわれ日本人はいま、「統治形態としての恐怖(テロル)」のなかにいるのかもしれない。それほどテロルを感じられないなかにあって、なおかつ。そして、恐怖と不安、恐怖の不安化、むずかしくてわからんが。

また、暴力と権力の話に戻る。

たとえば日本でも中世をおもいだしましょう。幕府のみならず各守護大名暴力装置である戦争手段を有していましたし、寺社も独自の軍事力をもっていました。中央集権のすすんだ江戸時代ですら大名は独自の軍事力をもっていたのです。すなわち、最近にいたるまで、正当な物理的暴力行使は、社会の「多種多様な団体」のなかに分散していました。近代とはその暴力が国家に独占されていくプロセスによって定義されます。このようなプロセスを、思想的に正当化したひとつの潮流を社会契約論といっていいでしょう。

「近代とはその暴力が国家に独占されていくプロセスによって定義されます」……なるほど。たとえばおれがこの本を読む前に「近代とはなにか?」と問われても「……わかりません」となるところがあったが、これによって「暴力が国家に独占されていくのが近代だ」などと言うことができるように思う。もちろん、「近代」というものがそれだけかどうかしらんが、ひとつ、なにか見方の定規を持ったように思えた。近代とは暴力装置の集約にある。悪くない。

とはいえ、国家以外に暴力を持つ集団が現れないでもなかった。各国のゲリラもそうだろうし、日本では学生運動などもそうかもしれない。しかし、暴力を持つ集団とは似てきてしまう。あらゆる集団は、たぶん、疑似国家になってしまう。たぶん、というのはおれの考えていること。

問われるべきは、開放性を唱えながらただひとつのゲームへの服従を強要していく力に対抗するための集団性のあり方です。かつて谷川雁は「連帯を求めて孤立を恐れず」といい、全共闘運動はこのスローガンを継承すると同時に転倒もしました。「孤立を求めて連帯を恐れず」というものです。ここに尽きているかもしれません。わたしたちが本当に各々の特異性を発揮し、また承認しあうには、なんらかの形の集団性が必要なのです。

「連帯を求めて孤立を恐れず」は父の口癖のようなものであった。父は吉本隆明のすべての著作を本棚に並べていたので、吉本隆明の言葉かと思っていたが、谷川雁だったか。しかし、特異性を認めて連帯する集団というものが成り立つのかどうか、おれにはわからん。

まず人間がいて必死で生きようとすれば肉体的衝突が生まれるのは当然であると考えて、その前提のうえでルールをとられ、かつ活用しようとするのか、それとも、肉体的衝突は本来あってはならないものであり、実際になくすこともできるという「ルールのユートピア」からはじめ、ルールの遵守を人間の生のあり方の最初にもってくるのか。つまりわたしたちの生がルール先立つのか、ルールがあってそのおかげでわたしたちがあるのか。後者の発想が浸透してしまっているのが現在の日本社会であることはいうまでもありません。しばしばそれは「日本の礼儀ただしさ」というかたちであらわれることもあります。しかし、こうした「礼儀ただしさ」のなかには、それよりも、わたしたちの生の肯定から入れない現代の日本社会の危うさを感じる場面が多々あります。

 して、現代日本である。おれは「危うさ」を感じるほど社会を俯瞰することはできないが、ルールやマナー、「暴力はいけません」についての大前提というものに堅苦しさを感じることは多々ある。こうやって打ち込んでいるおれの言葉についても、どこかルールを逸脱しないように遠慮するところがある。具体的に言えば、炎上しないように心がけている。べつにおれひとり燃えたところでどうということもないのだけれど。ただ、おれの心情の根っこには大杉栄の衝動があり、辻潤の無為無作がある。相反するものかもしれないが、この今の正義とは相容れないところがあるなあ、という思いはいつも抱いている。

いわゆる「全体主義」体制を支えるのは理念への信仰ではなくシニシズムです。たとえば、スターリンの体制がもっともおそれ、最初に弾圧したのはシニシズムのない人間、すなわちコミュニズムのような理念を本当に信じている人間でした(スターリンが革命勢力のうちの実務的穏健派/中道派であったことは忘れてはなりません。おそらく「全体主義」は中道派がエクストリーム化する動きともかかわっています)。

して、シニシズムの話。これが本当であれば示唆に富んでいる。なんとなく同じ方向を向いているけれど、ちょっと違っている。そして、それに情熱を持っている。そういう人間ほど、権力を志向するものにとっては邪魔である。内ゲバといえばそうなのかもしれない。全体主義シニシズムによって支えられている、あるいはその上にある。覚えておいて損はないかもしれない。

最後に、モーリス・メルロ=ポンティの言葉を孫引きする。とくに本書の結論ではないかもしれないし、おれの結論というわけでもないのだけれど。

暴力に対する暴力を控えるということは、暴力の共犯となることである。わたしたちは、純粋さと暴力のどちらかを選ぶべきなのではなく、異なった種類の暴力のどれかを選ぶべきなのである。受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である。

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