西村賢太『痴者の食卓』を読む

 

(文庫本化したさいに表題作名を変えたようです。しかし、文庫本の表紙はなんなんだろう)

 

おれは図書館に行くとき、次に借りるものが決まっているときと、決まっていないときがある。決まっているときはもう予約済みのものを受け取るだけだし、そうでないときは当てもなく館内をうろつく。半々のときもある。おれの頭の中はつねに六冊の貸し出し枠について計算している。借りて読まない本もある。

このあいだの土曜日は、ほぼ決まっていない日であった。一冊書庫からの取り寄せを頼み、その待ち時間で書棚を眺めた。ふと、「西村賢太」の単行本置き場が目に入った。そうだ、西村賢太はこないだ死んだ。するとどうだろう、その置き場はすかすかではないか。みな、考えることは同じなのか。そういうおれも、そのすかすかの置き場にただ一冊だけ残されていた本に手を伸ばした。『痴者の食卓』というタイトルだった。

西村賢太とおれ、おれと西村賢太

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六年前に、代表作とされる『苦役列車』を読んだ。どうも、ちょっと面食らったような感想文である。また別の作品を、などと言いつつ、一作も読まず六年経った。

六年ぶりの西村賢太は、あまりむずかしい言葉を使っていなかった。結句とか言ってるけど、その程度だ。そして、酒に酔って女に暴力を振るっていた。たまに反省するけれど、やはり怒りはぶり返すのであった。

「平仄の合わねえことを云うな、低能めが!」

 再び一喝した貫多は、卓上の自分のビールグラスを掴んで、フローリングの床に叩きつけた。

 その破片が意外に広範囲に飛び散ったことを視界の端にとらえながら、更に、

「貴様、まだ分からねえのか! 人の気持も考えず、下らねえ自己主張ばかりしやがって。すべてはてめえから因を発したことだろうが!」

 と怒鳴りたてる。

 そして悔しさか何なのか、今にも泣きだしそうな面持ちで、食卓の椅子に身体を横向きにして座り込んだ秋恵が、こちらへの呪詛を小声の早口で口走ったのを聞き逃さず、

「うるせえ、ゴキブリ! このぼくに向かってえらそうに恨みがましいことを云う前に、てめえは自分の思い上がりをとくと三省しろ! 何が、あたしホットプレートの鍋がいい、だ。はな、ぼくが許してやった土鍋とカセットコンロにしておけば、こんな不快なことにはならなかったんだ! すべては貴様が悪いんだ! 貴様がすべてを台無しにしやがったんだ! これ以上、ぼくの足を引っ張るな! こんなものは、鍋ごとさっさと捨ててしまえ!」

 尚と怒声を上げ、傍らの臭い鍋に唾液を吐いて、ついでに手鼻もかみ飛ばす。

 その貫多は、それで一度は憮然とリビングを出て、玄関脇の自室に引き下がりかけたが、何かこの程度ではどうにも気持ちがおさまらず、再びリビングに取って返してくると、最前と同じ姿勢でチンと座っていた秋恵の側頭部を、さして手加減をせぬ平手でいきなり二発、三発と引っぱたいた。

 これに頭をかかえて、卓上に突っ伏そうとするのを、尚も容赦なく襟髪を掴んで引き起こすと、

「生意気なんだよ!」

 との絶叫と共に、も一度力任せに引っぱたいてやるのだった。

 

『痴者の食卓』

しかしやはり、この奇妙な言語感覚というもの。ふつう、DVをふるうのに「平仄」とも「因を発す」とも「三省」とも言わんだろう。そこが、なにかしらのユーモアになっているのかもしれない。

ユーモア? こういう一方的な暴力に? そういう時代でもあろう。そういう時代を北町貫多は存在できたであろうか。なにやら最新作では暴力表現もなくなっているというが、どうだったのか。というか、いったいこれはなんなのだろう? 小説とは? 私小説とは?

というわけで、この世界に合わなくなったから、この世からおさらばしたんだな。……というのはぜんぜんおもしろくない。どうにもそう思う。はっきりいって、おれはこの下品さ(唾液と手鼻)を受け付けないのだけれど、しかしそうはいっても、人間なんてものはこういうもんなんだろうし、少なくとも西村賢太のなかにはあったし、それを表現せざるをえなかった。なんというか、そういうところの、一方で私小説に賭けるところのそういうところが、やっぱりなんともなにか早死するには惜しい、と二冊しか読んだことのないおれが言えるものでもないが、うーん、このさきの世の中なにを書いたのかと気になるようなところもある。ブコウスキーのようにもっと老いて書いてもよかった。

いずれにせよ、ものを書いて晒すということは、自分の臓物をぶちまけることだと思っているおれにとっては、どこかで尊敬せざるをえない存在であって、この経歴にはどうやってもかなわねえよなというところもあって、まあまた機会があったら読んでみようかなどと無責任なことをいう。

 

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西村賢太」でこの日記を検索してみたら、『苦役列車』のほかにこの記事がひっかかった。解説を書いていたようだ。