上原善広『日本の路地を旅する』を読む

 同和問題とおれ、おれと同和問題。おれは北海道の札幌の生まれた、物心つかないうちに神奈川県は鎌倉市に引っ越してきた。20年かそこら藤沢よりの鎌倉の新興住宅街で暮らしてきたが、親の生活の破綻、一家離散。その後は横浜は寿町の近くでまた20年近く過ごしている。これがおれの出自と経歴ということになろうか。
 そんなおれにとって、同和問題というのは、小学校のときの道徳の時間かなにかで教わった、教科書か副読本に載せられた文章に過ぎなかった。子供の時分、被差別部落というものを実感として感じることはなかった。「これは士農工商、過去の話だろう」と片付けてしまった(実際に鎌倉なら鎌倉がそうでないのだとしても)。そして、それ以後も全く身の回りの出来事として触れることがなかったので、「寝た子は起こすな」の「寝た子」として過ごしていけばいいと思っていた。関東と関西ではずいぶん認識が違うと知っても、おれは関東者だから関係ないし、みなが寝た子になれば問題はなくなるのではないか、と。

 そんなおれが急に「なにそれ?」と興味を持ったのは上の朝日新聞の記事……についたはてなブックマークの中にあった「あぶらかす」や「さいぼし」という料理名だった。聞いたことがない。そういうのもあるのか? おれはお好み焼きばっかり食ってるわりに、食い物にはちょっと興味を持つタイプだ。こうなったら、少し向き合う必要があるのかもしれない。そう思って一冊の本を手にとった。

日本の路地を旅する (文春文庫)

日本の路地を旅する (文春文庫)

 これである。「え、料理だったら『被差別の食卓』の方では?」という声もあろうが、まず外堀から埋めていこうというのがおれの流儀である。
 「路地」……。被差別部落のことを中上健次がそう呼んだのは知らないわけではない。

 若松孝二の映画を通じて知っている。中上健次の本は部屋のどこかにあるが、まだ読んではいない。いずれにせよ、『日本の路地を旅する』は、わかる人にしかわからないタイトルともいえる。おれにとっても、路地といえば、たとえば田村隆一が愛した鎌倉の路地の印象が強い。

僕が愛した路地

僕が愛した路地

 だから、おれの正直なところとして、路地が「路地」であることについて、多少の違和感があることは白状しておく。
 して、プロローグにてこんなことが書かれている。

 それは路地と路地とをつなぐ糸をたどるような旅でもあった。今は断ち切れたか細い糸は、以前に確かにあったものだ。

 これをよんで「あっ、そうなの」と思った。おれが勝手に想像していた「路地」というものは、その地区、その場所に捕らわれざるをえなかったものであって、離れた「路地」同士の糸(ネットワーク)があるとは想像もしていなかったのだ。これは本書を読み進めていくなかで、いろいろの事実として、歴史として浮かび上がってくる、ひとつのテーマでもあった。
 さらには、知らぬことがどんどん出てくる。エタと非人が違うルーツだということすら認識していなかった。

 エタ身分であったかわたは、皮なめしなど、主に死んだ牛の処理に就いていた者たちを指すが、その他にも非人というのがいた。この非人というのは大雑把にいえば村々の番人や牢番などの番太、乞食や遊行芸人等のことを指してそう呼んだ。身分としてはエタの下にあたるが、地方によって多少の違いがある。
 非人たちは、後に足を洗ってその身分から抜けることもできたが、かわたは生涯、かわたであった。

 「かわた」は大阪の「路地」の者の昔の呼び名である。ここからも門付や河原乞食という世界の、あるいは境界の話につながっていくような気もする。そしてまた、肉食、牛肉食の忌避はインドやネパールに遡れる話だという。インドのカーストはインドのカーストと思っていたら、極東にまでつながっていた話らしいのだ(あまり具体的に書かれていないが、何度か出てくる)。おれが日常で二番目に多く会話をする(「おはようございます」が会話というのであれば、だが)のはネパール人だが、そんなことも知らなかった。
 また、幕末に池田屋新選組に殺られた吉田稔麿が「屠勇隊」という「路地」の者たちによる部隊を構想していたことも知らなかったし(実際に結成されて戦果を上げた)、城と「路地」との関係が深く、殿様の移封によって「路地」の者もまたそれに従っていったということも知らなかった(革の防具や装飾品は彼らなしに作られはしなかった)。あるいは、神社に仕える者(神人というのはなんとなく聞いたことがあったが、それとは別のようだ)、上にもあったが番人や牢番という一種の権威がなければ務まらなそうな者たちもいた。そしてまた、琉球に渡り「京太郎」と呼ばれるようになった者たちがいた。「路地」の者は近隣の「一般」の者と一緒になれないから、遠くの路地と婚姻のネットワークが築かれた……。
 まったく知らないことばかりだ。そして、どれもこの国(……関東以北は意識が薄い、といわれるが、この「旅」は「最北の路地、青森、秋田」から始まっている)の歴史の一部に違いない。これをほんの僅かなりとも引き受けず、「寝た子」でいておればよい、いずれ消滅するであろう、というのはやはり誤りではないのかと、おれは思い直したわけである。いや、そこまで深い覚悟はない。深く関わっていきたいとは思えない。もともとおおよそのことに関して無関心で、関わりを持たないのがおれという生き物ではある。ただ、もう無知ではいられなくなったし、寝た子のふりをするわけにもいかなくなったな、というのが多少なりともの実感ではある。

 路地に詳しいある人が、こう語っていたのを思い出す。
「この現代に被差別部落があるかといわれれば、もうないといえるだろう。それは土地ではなく、人の心の中に生きているからだ。しかし一旦、事件など非日常的なことが起こると、途端に被差別部落は復活する。被差別部落というものは、人々の心の中にくすぶっている爆弾のようなものだ」

 この「爆弾」はおそらく被差別部落のことに限らずあるだろう。あるいはもう爆発がそこらで見ることができるかもしれない。この問題を勝手に拡げて考えていくことも正しいかわからないが、たとえばおれの中に爆弾はないか、導火線に火がついていないか、あるいはもう爆発し続けているのではないか、考える、あるいは感じることは無価値ではあるまい。
 というわけで、さすが「大宅壮一ノンフィクション賞」受賞作である(おれは大宅壮一の本を読んだことがないが)。と、本書をすでに読まれた方からは、著者の身の上や、各地の「路地」の人達とのやりとりにある情緒について触れていないではないかとお叱りを受けるかもしれない。たしかにそこが抜けては、単なる旅行記であり、歴史本のような印象になってしまう。が、おれにはその大きな部分について、感傷について、どういっていいかわからない。それはもう、君、この本を読んでくれ、といったところである。淡々としていながらもどこか熱のある文体も含めてである。解説の西村賢太私小説を書くべきとも言っているし、そういう方向に著者も行くようだ。
 最後に、食べ物のメモ。これは「路地」のメニューではないようだが、「ぎゅうすい」。すき焼き用の牛肉と長ネギを関西風うどんのだし汁でさっと煮るだけ。玉子を落としてもいいし、しょうがを効かせてもいいらしい。おれは基本的に牛肉は高くて買えないが、なにかこう、「あぶらかす」や「さいぼし」より手軽(材料の入手実現可能性が高い)そうなこともあって、そういうのもあるのか、となった。まあしかし、牛肉を買う(牛だけにカウ!)となったら、何年も食べていないすき焼き味で食べたいか。そういえば、近江彦根藩が将軍家や各地方に牛肉の味噌漬けを贈呈していたなんて話も載っていたっけ。文明開化でいきなり牛鍋ということもなく、江戸中期くらいから、食うところでは食われていたというわけだ。権力とタブーと食、これもまたなにかありそうなところではある。とりあえず、以上。
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被差別の食卓 (新潮新書)

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被差別のグルメ (新潮新書)

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……とりあえず読むだろう。しかし、似たタイトルだな。