『反骨の棋譜 坂田三吉』を読む

反骨の棋譜 坂田三吉

反骨の棋譜 坂田三吉

 坂田自身、この一手について朝日新聞紙上での連載「将棋哲学六、坂田名人実話」でこう紹介している。
 「その時自分は二五の銀という手を打った。その銀は進退窮まって出た銀だった。出るに出られず、引くに引かれず斬死の覚悟で捨て身に出た銀であった。ただの銀じゃない。それは坂田が銀になって、うつ向いて泣いている銀だ。それは駒とは違う。坂田三吉が銀になっているのだ。その銀という駒に坂田の魂がぶち込まれているのだ。―その銀が泣いている。涙を流して泣いている。

 演歌「王将」や「銀が泣いている」の坂田三吉上原善広の本で「路地」(被差別部落)出身者の一人として紹介されており、そういえばよく知らなかったな、と思い一冊読んでみた。読んでみたところ、なにやら著者は将棋の門外漢の元大阪日日新聞(どんなものかは知らない)で、部落問題の取材の経験があり、あとは「週刊金曜日」に連載を持っている人のようだった。だからといってなんだ、おれはべつに気にしない。書かれているこの本の内容がすべてだ。
 じゃあどうだったのか、というと、一歩か二歩斬り込みが浅い、と感じた。舞台やテレビでイメージづくられたナニワの無頼者というイメージと、実際は身だしなみにも大変気を使う、礼儀正しいダンディであったことなんかが書かれていて「へえ」と思ったが(実のところ「創られた坂田三吉のイメージ」というものにあまり接していないので、このあたりはおれ自身の問題でもあるのだが)、それが差別(「路地」への? あるいは東京から大阪への?)とも言うでもなく、言わないでもなく、なんとも中途半端な感じがしたのである。言っちゃ悪いが、旧世代の左派っぽさが随所に見えて、なんともな、という感じがある。そういう回りくどさ、あるいは「なんか急に関係ない話挟んでるな」感によって、三吉の凄みに踏み込めてないと感じる。というか、この内容であれば、wikipedia:阪田三吉でいいかな、というあたりだろうか。
 とはいえ、坂田自身の言葉(本人は読み書きができなかったというが、今で言うところのディスレクシアではなかっただろうか)なども出てきて、坂田の生涯とそのかっこよさの一部に触れられるのも確かである。そして、坂田が将棋の求道者、哲学者の域に達していたようにも思え、それこそ棋譜のなかにそれを読み取るだけの棋力が自分にもあればなあ、などとも思う。

 また、坂田はこうも語っている。
 「蓮根をポキンと折ると、蜘蛛の糸よりも細い糸が出る。その細い糸の上に人間が立っているとしたらどうか。立とうとて立てるものではないが、確かに蓮の糸の上に立ったのだ。一切の力が身体から抜けだして駒に吸い込まれてしまうと同時に細い糸の上にも立って歩ける、というふうにならなければ本当の将棋ではない。そんなとき指す駒に音の出るはずがない。響きのするはずがない。音をさせるのは心もちが本物ではないからだ」(大阪朝日新聞「将棋哲学(十)」一九二九年一月八日)

 坂田三吉丸山忠久のように音無流であって、飛車を割ったりしないのである……というのはどうでもよく、先の銀にせよ、この話にせよ、まるで禅者そのものではないか。語録が本になっていれば読んでみたいものである。

>゜))彡>゜))彡>゜))彡>゜))彡

異形の日本人 (新潮新書)

異形の日本人 (新潮新書)

……この本の「溝口のやり」など思い返すに、上原善広による坂田三吉伝なんかも読んでみたく思う。