映画『福田村事件』のエンターテインメントについて

 

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シネマ・ジャック&ベティで映画『福田村事件』を観た。ジャック&ベティに行くのはずいぶん久しぶりのような気もしたが、そうでもないような気もする。調べてみたら足立正生監督の『REVOLUTION+1』を観に行ったのであった。

安倍晋三元首相銃撃事件を描いた映画『REVOLUTION+1』をシネマ・ジャック&ベティで観る - 関内関外日記

 

そんなわけで、おれがどんな思想傾向の持ち主かというのはべつに説明するまでもないだろう、ということにする。実際に起きた「福田村事件」がどのようなものなのかもWikipediaでも読めばいい。

ja.wikipedia.org

 

というわけで、「ドキュメンタリーの監督の初の劇映画なのにけっこうエンターテインメント要素強かったな」と思った、そのあたりのことだけ書く。そうじゃないことを読みたいという人は、たとえば同時代についての下の記事でも読んでください。

 

goldhead.hatenablog.com

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で、まずなんだろうか、想像以上に出演陣が豪華だった。そのあたりのことを調べずに行った。それどころか上映から一ヶ月経っているのに、批評や感想、紹介記事などもほとんど読んでいなかった。なので見たらびっくりした。「あれ、これ、田中麗奈だよな」とか思った。

 

井浦新、永山瑛太、柄本明、東出昌大、コムアイ、豊原功補、それに水道橋博士にピエール瀧だ。「お、この手の映画にピエール瀧といったら、やっぱり軍服か? 在郷軍人会か?」と思うかもしれないが、それは違う。軍服なのは水道橋博士だった。

 

それにしてもなんだか、おれは何回ジャック&ベティで井浦新を見たことか、などと思った。思ったというか、この映画の「若松プロ」感はなんなんだ? すごく「若松プロ」っぽいぞ、と思った。

 

shueisha.online

でも東出さんがまず最初に、「森監督が映画を撮るなら、どんな役でも出ます」と言ってくれました。それまで交流はなかったのですが、映画化の話を聞きつけて連絡をくれたそうです。新さんもその段階ではほぼ内定していました。僕以外のスタッフはほとんど旧若松プロの面々で、彼はその若松プロの看板俳優でしたから。

 

この記事も今さっき読んだのだけれど、なんだそうだったのか。というか、脚本に井上淳一、荒井晴彦だもんな。そりゃ若松プロっぽくなるよな、と。

 

でも、若松プロ作品よりも金がかかっている感じがした。出演陣ばかりでなく、セットとか、そういう部分で。もちろん、映画の中では予算の少ない方なのだろうが、安っぽさはあまり感じなかった。そこに、名うての俳優陣が気合入った演技しているのだから、うまい言い回しは思いつかないが、映画の画面が成立している。「ノンフィクションの監督だからそのあたり期待できないのでは」、あるいは「あえてノンフィクション風な温度なのでは」というところはない。

 

むしろ、想像以上にエンターテインメントが強い。そのあたり、逆に好みは分かれるかもしれない。とくに前半部、舞台となる村の人間関係の絡み合い具合は、「やりすぎじゃないのか」という思いもないではない。そこまでして個人個人を描くからこそ、後半の集団としての行動に重みが出るんだよ、ということかもしれない。でもやっぱりやりすぎかな。

 

まあそれにしてもあれだ、「この映画を語るのにそんな言葉を使うのか」と言われたら、すんませんと頭を下げるしかないが、おれにはこれについて触れておかねばならんということをまず書いておく。NTR、寝取られ要素多いんよ。一つの映画の中に三ケースも登場するのよ。いやね、おれは嫌いじゃないから、というか大好きなので、いい意味で「ひえー」、だけど、普通の人は一つで十分ですよ、わかってくださいよ、と思うかもしれない。いや、ほんま、これはちょっとね、予想もしていなかったね。

 

ま、それにしても東出昌大はセクシーよな。不自然でなく鍛えられた肉体よな。野性味もあるよな。そのモテに説得力がありすぎる。これだけ説得力がある役というのも珍しい。そういえば東出昌大、『菊とギロチン』で中浜鐵を演じていたっけ。いい役者よな。それでもって、エロいよな。ちゃんとエロいよ。

 

永山瑛太もね、被差別部落の行商人のリーダーという難しい役どころを、はっきりした存在感で演じていた。弱いものがさらに弱いものを食いものにするという部分、自分たちの境遇に対する諦念のようなもの、それでもやはり現実に対する怒りも抱いている部分、皆を引っ張るものとして前向きな意志もあること……うーん、複雑やね。複雑だけれど、この映画の決め台詞といってもいいところで、ある意味はっきりとね、訴えるのよ。

 

訴えるのよな、この映画は。おれはそういう部分はもうあえて言わなくてもいいだろうと思ってこの感想文を書いているのだが、まあ映画自体は大きな訴えだよ。それについても「直接的すぎるよ」と思う人もいるだろう。しかし、扱っているテーマがテーマだし、おれが若松プロ作品好きなところも、そんなん隠さないところだし、むしろ抑えているくらいのところはあるかもしれない。現代に地続きの話というところでは、木竜麻生(この人も『菊とギロチン』ですね)演じる女性新聞記者とピエール瀧とのやりとりなんかが、現代のメディアのありようを直接批判している感じが強かったかな。ピエール瀧が平民新聞にいたという裏設定はあまり感じなかったけど。

 

なんか話がぶれてきたな。わりとまとまらん。この記事はリアルタイムでお送りしています。そうだな、映画が終わったあと拍手する人がいて、「お、この映画館でも珍しい」と思ったんだけど、それはともかくとして、「いつ事件が起こるのかと思って疲れた」と話していた人がいて、たしかにそういうところはある。監督は「嘘というなら全部嘘ですよ」と語っているが、核心部分、「福田村事件」が描かれることは決まっている。さすがにそこをすかすようなアクロバティックなことはない。たしかに、村の濃密な人間関係部分から、井浦新と田中麗奈の夫婦関係、行商人たちの旅の様子……。そして、大震災、飛び交う流言蜚語、朝鮮人虐殺ときて、「福田村事件」はいつ? と、予告された殺人の記録を待つ、待つといったら変だけれど、そうなってしまうところはある。

 

もちろん、映画としてはクライマックスになるわけで、劇映画としてここがだめなら、全部だめだぜ、ということになりかねない。そこは、大丈夫だと思う。きっかけを作った人物にもその背景があって、最初の一撃を振るった人にもその背景があって、説得力がある。緊張感も暴力もある。うまくやってみせたんじゃないのかと思う。

 

というわけで、想像以上にエンタメ映画していたな、と。「福田村事件」にいたるまでが長く、決して飽きることはないけれど、なにかこう、映画が終わったときには少し汗をかいて、ぐったりとするところがあった。それだけ映画として強いところがあったということであって、見終えてなにも感じないで席を立てるような作品ではおもしろくない。むろん、この映画の強さには「関東大震災後の混乱の中で方言が通じず朝鮮人と間違われた香川県の被差別部落の行商人9人が殺された」という史実の強さがあってのことだ。ただ、その「間違われて」が意味するところにはきちんと答えを出していて、そこはよかった。

 

でもまあ、その史実ゆえに、登場人物のだれもすっきりしないで終わる話でもある。井浦新と田中麗奈も、最後には過去のトラウマを払拭するような行動をするが、かといって止められなかった。その関係もどうなっていくのか、わからない。本人たちにもわかっていない。

 

おまえのデモクラシーは負けたとまで言われた村長も、記者に「この村から出られない」と語ることができない。こんなことになったのは、流言蜚語を否定するどころか、助長するようなことをしてしまったと言う記者も、その記事が書けたのだろうか。世に伝わったのだろうか。ほとんど伝わっていなかったのが事実だろう。この事件は長く世に知られなかった。

 

そういう意味で、ここにこうして、こういうスケールの、こういう俳優陣を集めて、こんな映画を作った価値はある。むろん、これは記録ではない。ノンフィクションというものがこの世に存在するとしても、これはノンフィクションでもない。でも、だからこそという意義もある。そして、この映画がこういうテーマのわりにけっこうお客さんを集めているのも悪くない。ちゃんとした数字は知らないけど、封切り一ヶ月後の今日も、けっこう席が埋まっていたもの。正直、もっと空いているかと思っていた。客を選ぶ映画という意味ではそうに違いないが、映画は客が選ぶものでもある。

 

まあしかし、なんだろうか、たぶん、この映画を絶対に観ないし、観ないで否定するような人こそちょっと観たほうがバランスいいんだろうが、まあ観ないだろうし、観ないで否定するだろう。批判的精神だけで観に行ってやる、と、わざわざ映画館行く、二時間座って観る、金も払う、というのはちょっと面倒くさいもんな。というか、おれも観たくない映画は観ないし、まあ観ないものを観ないというのは普通か。おれもバランスとれてないわけだ。

 

そんなバランスの取れていないおれは、逆にもうわかったようなつもりで観に行くものだから、いまさら人類とその集団の過ち、その差別と暴力の歴史について通り一遍の感想も書く気がおこらず、こんな感想文を書いた。わかった気になっているというのはよくないことで、おれも先入観に毒されている。でも、もしもこの映画がおれの陳腐な先入観だけで終わるような作品だったら、べつになにも書こうとは思わなかっただろうし、できたら行こうかどうか迷ってる人には、ちょっと行ってみなよって言いたいので、こんなん書いている。そんなところ。

 

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おれは森達也監督の直筆サイン入りパンフレットを持っている。「彼女とまた来ます」と言ったのは嘘になったが、『福田村事件』は一緒に観たのでよしとする。

 

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……すまん、記憶にない。

 

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森達也という人はもともと劇をやっていたのであって、ドキュメンタリーからの人ではない。そして、「ドキュメンタリーは嘘をつく」、あるいは「つかざるをえない」というところをわかってやっている。そこをわかっているかどうかは大きな違いだと思う。で、そんな人が「劇映画」を作ったのが『福田村事件』ということになる。そういう観点から見て、なにかわかる人にはわかることがあるかもしれない。

 

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感想文書いているときには忘れていたけれど、「村木源次郎が井浦新なんよ」ということで、『福田村事件』の『菊とギロチン』度はさらに高いということになる。