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秋山清『ニヒルとテロル』を読む

 

ニヒルとテロル (秋山清著作集)

ニヒルとテロル (秋山清著作集)

 

  組織における、資本力における、はるかな優越、したがって現社会における支配的力としての強者は、わが国において現在ほとんど絶対的にすら見える。その絶対的権力の側には被圧迫階級の平穏を望む意識までも民主主義の名目によって、彼らの側に組み入れられているかにも見える。テロルを撲滅せよという、今日の一般的常識の風潮に、私のなかの何者かが小さく反撥するのは、民主主義の名による支配と暴力にたいしてささやかなテロリズムが刃向かうときの見取図が、あまりにも強にたいする弱の、大にたいする小の、よわよわしすぎる対比でしかない現実に、私が気づいているためかもしれない。

「テロリストの文学」

この「今日」は1968年である。今、ここ、今日である2016年だかなんだかは、上に描かれた情況からかけ離れているのだろうか。かけ離れていない、とおれは思う。そしておれは、やはりテロリズムについて甘い夢を見る。甘すぎる夢を見る。それこそ、よわよわしすぎる夢だ。大正のテロリストたちは不発に終わった。いろいろのテロリズムは不発に終わった。この国でテロリズムが勝利したのは、明治維新が最後だろうか。よくわからない。そして、その明治維新を起こしたのは、被圧迫階級だったのだろうか。よくわからない。大正のテロリストたちは不発に終わった。それは事実だ。

また、秋山清の本を読んだ。載っている内容はだいたい知っているようなことだった。知っているようなことだったが、秋山清が江口渙の回想録をディスっていたりして読み応えもあった。古田大治郎は古い道徳観から逃れられなかったのか? 

しかし、何よりも興味を持ったのは辻潤についてである。これまでのおれの辻潤についての意識といえば、伊藤野枝の話の中に出てくる人、くらいのものであったが、ニヒリスト、ダダイストとしていくところまでいった人間ではないか、ということである。有島武郎にギロチン社が金をせびったとか、そういう話はおいておこう。辻潤、である。

……自分の意志や判断が、ハッキリ付かないうちにいつの間にか、他人の意志として、他人の生活をするようにさせられてしまっている。そして、親達は『誰のお蔭で大きくなったのだと思う』といって、恩をきせ、国家はさも、国家のお蔭でお前を教育してやった、知識を授けてやったというような顔をして恩をきせる。

ちょっと辻潤の書いたものを読んでみよう、辻潤について書かれたものを読んでみよう、そんなことを考えている。

 

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