なにもしないことがしたいのだ

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 まるまる生きてみたところでたいして長くもない人生なのだから、どうかして、平凡無事に無邪気にくらしたいものだと思う。が、今迄の経験によると中々そう簡単にはゆかない。こっちではそう思っていても向こうからやってくるのだから耐らない。戦争でも始まったらどんなことになるのか、自分だけすましているわけにはいかないだろう。だれもすき好んで気狂い病院などに入りたいと思う者はあるまい。しかし、ふとしたはずみで自分のように気が狂ったなら、それは当然の結果で、ドロボーをすれば刑務所に入れられると同じことである。ボオドレエル流にこの人生を一大瘋癲病院だとすれば、死ぬまではその患者として生きていなければならないわけである。そうして、生きている間はなにかしら絶えず酔ッ払っていなければ忽ちアンニュイのとりこになってしまうのである。凡そこの世の中でなにが羨ましいといって、自分の仕事に夢中になって没頭している人間ほど羨ましい者はない。自分には今それがまったくなくなっているからである。単に生存を持続するために惰性でその日を暮らしている程みじめな存在はあるまい。

「変なあたま」辻潤

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おれはたまにおれが辻潤なんじゃないかと思うことがあるくらい変なあたまの持ち主なのだが、やはり最近も部屋に転がっている適当な本を読んだら辻潤常に「無為無作」を夢みているとか言ってて、「いいよな、無為無作」とか思ったりして、そうだ、おれの座右の銘は「無為無作」にしようかと思ったりもした。それまでのおれの座右の銘は……「力のいる馬場の短距離はゴドルフィンの馬」だったかな?

そうだ、「無為無策」ではない、「無為無作」だ。「無為無策」では、なにかこう、なんにもしたくないことへのなんにもしたくなさがあまり感じられない。どこかまだ策を考えてやろうという力みがある、小賢しさがある。それに受け身でもある。人生というのが向こうからやってくるものであって、それに対して心身などのある自分らしきものを守ろうという策をこうじるようなところがある。無論、おれが無為無策の人間であるということも間違いはないのだが。

一方で、「無為無作」となると、なにもしないぞ、ということに対する圧倒的な力、あるいは圧倒的な脱力があっていい。おれはなにもしない、なんにもしたくない、貝になりたい、あ、でも、貝は貝でなにか大変なのかな、まあいい、なにもなそうとはせず、なにも作らない、それだ。でも、作るというと意味がせばまってしまうような気がするので、もっと大きく、広い意味でとってほしいように思う。

自分の生活は俗にいう不徹底極まりない生活である。しかし、考えると所謂徹底ということにどれ程の価値があるかそれさえ自分にはわからない程、自分はグラグラしているのだ。まことにフヤケたダラシのない生き方である。意気地なしの骨頂である。僕のような代物が若し今の労農露西亜に生まれていたとするなら、とうに打ち殺されているにちがいない。

辻潤「浮浪漫語」

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無為無作、調べれば仏教方面や漢詩に出てくるようであって、辻潤も仏教からとってきたのかもしれないが、よくわからない。しかしそうなのだ、不徹底というものがどうしてもでてきてしまう。ほんとうに無為無作に生きているか、といえばとうていそんなことは言えず、今日もこうやって会社に来て、隣の席の人が出張なのをいいことに、こんなことをダラダラと打ち込んでいるくらいだ。たしかにこんな人間は労農赤軍に入ったところで、二人に一丁の銃をもらって吶喊して散華するか、後ろ向きに走って督戦隊に撃ち殺されるか……いや、その場にヘナヘナと座り込んで、前から後ろから撃たれておしまいだろう。前から後ろから。

とはいえ、今のところここは労農ロシアでもないし、戦争がすぐに起こることもないようだし、即座におれのようなものが戦場に駆り出されるということもなさそうだ。しかし、人生は戦いなり(黄金の騎士)、おれのような精神障害者でもやはり働けるかぎりは働かなくてはならないし、その無能に応じた賃金で野菜などを買って調理して食べたりする。なにやらえらいことになっている。ひどくたいへんで、面倒くさいと思う。寝るまえには必ず歯をケアするし、処方通りの薬を飲んだりもする。朝になれば、目覚ましがなったら起きなければならない。シャワーをあびて、ヒゲまで剃る。人生のハードルは高い。しかし、ハードル競走から逃げるだけの才智も勇気もない。愚鈍で弱虫なのである。

したがって、愚鈍なりの、弱虫なりの生き方というものがあればいいと思うのだが、探してみてもそのようなものはないように思える。愚鈍なるものを才智あるものに引き上げようとか、弱虫に勇気をもたせようとか、そんな話には溢れているが、そんなものはちいとも興味がない。「なり」がいいのだ。馬は馬なり、人は人なり。とにもかくにも無為無策の無為無作でいたいのだ。なにもしないことがしたいのだ。なにもしないために、なにかをするとなると矛盾のように思えるが、たとえば「早めにリタイアして悠々自適の生活をおくるために、今はほかを抛って仕事を頑張る」などという発想はありふれた話だろう。だが、おれは、いま、ここで、すぐに、無為無作の人生に横超したいのである。その横超に、なんの修行も思惟も運動もあってはならないのだ。

すなわち、おれはともかくなにもしたくないことがしたいためになにごとかをすることもなく、たんに待ちぼうけている。そのときを待ちぼうけている。しかしなんだろうか、だれかがなにかした成果物はいずれ忘れられ、朽ち果て消えるものだろうが、このなにもしたくなさというもの、虚無への志向というものは、宇宙の始まりからあり、終焉まであるのではないかと思うところがある。エントロピーとネゲントロピー? この宇宙はそちらに向かって膨張しているのかもしれないし、ちょっと南の回転花火銀河にでも聞いてみたいものである。

 

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絶望の書・ですペら (講談社文芸文庫)

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