E・M・シオラン『崩壊概論』を読む

 

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E.M.シオラン選集〈1〉崩壊概論 (1975年)

E.M.シオラン選集〈1〉崩壊概論 (1975年)

 

シオラン、フランス語による初めての著書である。四回書き直したとか言っていた。1947年のことである。

本書はのちのシオランの著書のように、アフォリズムで構成されていない。「いや、この長さ、この構成はアフォリズムだよ」という人もいるだろうが、おれにとっては、ひどく精神的な調子が悪いおれにとっては読むのに苦労した。べつに理由にはならないか。

ともかく、フランス語最初の著作ということもあってか、シオラン先生みなぎっている。

 誰かが理想や未来や哲学について大まじめに論じるのを聞いたら、また、断乎たる口調で《われわれは》と言い、《他の人々》のことを持ちだしてその代弁者たらんとするのを耳にしたら――もうたくさん、それだけで私はそいつを敵とみなす。私がそこに見るのは、出来損ないの独裁者、まがいものの死刑執行人で、それは本物の独裁者や死刑執行人同様、憎むべき存在である。

今でもネットのこのあたりの界隈で「主語が大きい」とか「太宰メソッド」とか言われていることでもあるだろう。そしてさらには、人間の理想、人間の考えたことに対する不信から、これを反動的とみなすこともできるだろう。

 両肩と心の中に重荷を負い、牢獄の中で生まれたわれわれは、人生にけりをつけようと思えばつけられるのだからもう一日だけ生きてみようという気になるのであって、それでなければ一日たりとも生き長らえることはできないだろう……。この世界の鉄鎖の汚れた空気は、われわれから一切合財を奪い去り、残ったのはただ自殺する自由だけである。この自由が力と誇りを吹きこんでくれるので、われわれはのしかかってくる重荷を辛うじてはね返すことができるのである。

あるいは

 今でも私はい、生きている詩人よりも首をくくる門番の方を尊敬する。人間とは自殺猶予者だ――これこそ、人間の唯一の栄光、唯一の言いわけである。

奇妙なことに、死は永遠であるのに人間の習俗の中に入りこんだことがなく、唯一の現実であるのに流行することおあり得まい。かくてわれわれは、生きている限り、死におくれた者なのである……。

 この自殺観、人生観ものちのちまで何度も出てくる。自殺という観念がなければ、とっくに死んでいた、と。精神医学的、死後剖検的な見方からすれば、自殺というのはそんな高尚なものではなく、単に病気だということになるわけだが、さて死なないために自殺を抱くのは病気なのかどうか。病的ではあるかもしれない。

しかし、死が習俗の中に入る、流行する、これは今後ありえることではあるまいか。尊厳死安楽死、そういった面で。あるいは、現代日本はまだ自殺ブームのなかにあるのかもしれない。そして、これからもまた、一層。

 

 地球の屋根裏部屋のひとつで

《俺は夢見た。遠いとおい春を。海の水泡と俺の生誕の忘却のみを照らす太陽を。大地を呪い、どこを見てもよそへ行きたいという願いしか見出だせぬこの苦痛に唾棄する太陽を。地上の運命という刑苦をわれわれに与えたのは誰なのか。大地というこの陰鬱きわまる物質、時間から生まれたわれわれの涙がぶつかっては砕け散るこの大いなる悲嘆のかたまりである地球は、記憶にもない大昔、神の劫初の身慄いから落ち来たものだったが、いったい誰がそこにわれわれを固く縛りつけたのか。

 

《地球こそは――造物主の犯した罪だ。しかし俺には、もう他人の誤ちを尻拭いする気などない。大陸という大陸から逃亡して死苦を迎え、流動する砂漠に入り、非人称の破滅の中で、わが生誕から癒やされたいと願うのみだ。》

このあたりは詩人らしくもある。そして、地球非難である、生誕への非難である。生誕という厄災こそがシオランの原点のように思える。しかし、「非人称の破滅」というのはいいな。いつかかっこつけて「非人称のなんとか」とか書いてみよう。

 

貧乏人の位置

資産家と乞食――これが、いかなる変化、いかなる革新の混乱にも反対する二つの部類である。社会階層の両極端を占める彼らは、良きにつけ悪しきにつけ、あらゆる変化を恐れる。資産家は豪奢の中に、乞食は赤貧の中に、ともに腰を据えているからえある。両者の間に位置するのがあくせく働き、苦しみ、耐え忍び、そして希望という不条理を営々と耕す人々――かの無名の汗、社会の土台なのである。

 その「人々」、すなわち貧乏人。金持ちと浮浪者は貧乏人の寄生虫だという。

赤貧を救う手だてはたくさんあっても、貧乏を救う手だてはまったくない。餓死しまいと懸命な人々を、どうやって救えばよいのか。神さえも彼らの運命を変えることはできまい。運命の寵児と、ぼろをまとった人間のあいだを、腹を減らした名誉ある貧乏人たちが動きまわっている。この人々は、華美とぼろの両方から膏血を絞られ、働くことを嫌ってそれぞれの運や天命に従いつつ客間または街路に坐りこんでいる連中から、一方的に掠奪されるばかりである。人類は、まさしくこうして歩んで行くのだ。つまり少数の富者と少数の乞食――そして大量の貧乏人という構成で……。

さあ、このあたりの考えかたには「ちょっと待った!」という各方面からの声も聞こえて来そうだ。だが、物の言い方はともかくとして、なんとなく納得できる「構成」ではあるような気がしないだろうか……。

 

 真の知とは、結局、夜の暗黒の中で目覚めていることにつきる、すなわちわれわれの不眠の総量こそ、われわれと動物ないし他の人間たちとの違いのポイントなのである。眠っている人間から、かつて豊かな、あるいは不思議な思想が生まれたためしがあったろうか。君はよく眠れて、見る夢も安らかだろうか? それなら、君は無名者の群をふやすだけである。昼の明るさは思想の敵で、太陽は思想を暗くする。思想は夜にしか花開かないのである。

すさまじい不眠症であったシオランの言うことである。深夜主義だ。「白昼の言葉で知性の名誉を救った人間があっただろうか」だ。このひねくれ加減が好きな人もいれば嫌いな人もいるだろう。おれは真の知に目覚める可能性がないので、睡眠薬を飲んで眠ってしまう。

 精神を覚めた状態にしておくのに、コーヒー、病気、不眠ないし死の固定観念があるだけではない。貧苦もまた、より効果的とは言えぬまでも、同じくらい精神の覚醒に役立つのである。永遠に対する恐れと同様に、明日のパンの心配も、形而上学的恐怖と同じく金の心配も、休息と投げやりを不可能にする。――われわれの屈従は、すべて、餓え死にするだけの決心ができないことから由来する。

 餓死する決心をして餓死した、屈従しなかった人間……辻潤などが思い浮かぶ。だが、ほとんどの人間にとってそれは無理だ。そしてそうだ、「金の心配」は病めるおれをして「休息と投げやりを不可能にする」。これは正しい。しかし、いざとなればおれは自殺できる。そう思えばこそ生きていける。そういうもんなんだろう、シオランさん。

 

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