非暴力服従主義宣言

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――あらためて「非暴力抵抗」とは具体的に何をすることなのか、説明していただけますか。

 武力や物理的な暴力を使わずに、それ以外の政治的、経済的、社会的なあらゆる手段、具体的にはストライキやボイコット、サボタージュなどを駆使して、侵略者や独裁政権と戦うことです。

こういう考え方がある。だいたいボコボコに批判される。おれも批判する。しかし、おれの批判は多くの批判とは違うような気もするので、軽くメモ。

  • 銃をつきつけられたら、おれは服従する。絶対に服従する。拷問するぞと脅されても服従するし、強制収容所送りだと言われても服従する。
  • おれは弱い。果てしなく弱い。弱い生き物だ。その上に卑怯者である。自分の命のためなら、同邦人の子供を殺せと言われたら殺すだろう。協力するやつは助ける、と言われたら、積極的に手を挙げるだろう。
  • 祖国回復のあかつきには、敵国協力者として真っ先に吊るされるようなやつ、それがおれだ。
  • だから、「自分は武器を持って国や家族のために戦う」という人とも違う。そんなこと怖くてできない。そんなマッチョじゃない。戦える人は偉いものだが、おれにはその勇気がない。
  • とはいえ、「銃を持って戦わなければ非国民として殺す」と言われたら、それに対して抵抗することもできない。怖いから銃を担ぐ。そのときは、先に国に服従する。
  • おれはとにかく生きたいし、死にたくない。親兄弟を殺してですら、自分の命のほうがかわいい。
  • おれが存在しない世界は存在しない世界である。おれはそれほど絶対的なもの……超越的な存在、国家や国民意識、殉ずるほどの思想を持たない。

……という具合だ。

 アメリカの政治学ジーン・シャープは、非暴力抵抗運動の歴史的実践例をつまびらかに研究しました。そして、権力が存立する体系を理論化するとともに、その権力を無力化するための、198もの具体的な手法を示しました。

だから、もしもその198もの具体的な手法のなかに、心も体も意志も弱く、卑怯で怠惰な人間が助かる方法が書いてあり、そちらのほうが自分の身が助かるというのならそれに従ってもよい。銃をつきつけられたときのため、ガン=カタを習得するより簡単だろう。しかし、198とは、アルベルト・バーヨの『ゲリラ戦士のための150問』よりも多い。そして、『腹腹時計』くらい具体的なのだろうか。

 

 もちろん、非武装路線で国を守れるという確証はない。武力での抗戦に犠牲者が出るのと同様、非暴力抵抗運動でも犠牲者が出ることは避けられません。様々な手段で占領者に抵抗するわけですから、激しく弾圧されたり投獄されたり処刑されたりといった可能性は高い。

 それでも、全面的な戦争をするよりは、はるかに小さな犠牲で済むはずです。シャープも、権力崩壊のメカニズムを起動させるには暴力よりも非暴力的手法の方が強力だというだけでなく、武力で応戦した場合と比べて犠牲者数もずっと少ない傾向があると言っています。

――シャープは、非暴力抵抗運動に対する抑圧は苛烈なものとなり、人的犠牲は少なからず生じる、と言っています。ある意味で非常に功利主義者的な側面がありますね。そして、軍事作戦のように相手の弱みにつけ込むかたちで抵抗を続けろ、と説く現実主義者でもある。

 ええ。だから、そういう意味ではシャープはまったく理想主義者ではないです。アメリカ人らしいというか、非常にプラグマティックな考えをする人です。

それで、おれがあまり気に入らないのはここである。この考え方で犠牲者が出るということでなく、功利主義的な考え方で、人間の生死について論じるところへの疑問である。おれはおれ自身でそうとうなプラグマティスト、あるいは世の中のそういった考え方を内面化している人間だと思っているが、どうにもこのあたりは乗れない。「統計的には被害が少なくなる方法だから、おまえはここで抵抗して死ね」と言われて死ねるものかと思ってしまう。まだ、宗教的バックボーン、絶対者への帰依を理由に死ねと言われるほうが「わかる」といったらおかしいだろうが。再度言うが、おれにそういうバックボーンはないが。

 

 それに、僕は人間というものは、非暴力の人間を一方的に殺し続けることは、かなり難しい生き物だと思っています。たとえ政治的に洗脳されたとしても、人間としての善性を完全に捨て去ることができるのか。いくら「殺せ」という残虐な命令を上官から受けても、いずれ耐え切れず離反する者が少なくないんじゃないか。暴力をいっさい使わないという相手には、暴力を使いにくくなる。僕はそう思います。

ぼくは、そう思いません。……と思ってしまうが、どうだろうか。人間というものは、非暴力の人間を一方的に殺し続けることが、けっこう簡単にできてしまう生き物ではないか。それとも、アイヒマンが定年まで仕事をして、「退職しよう」といったところで、それはもう手遅れなくらい死んで死んで死んでいるのではないか。人間の弱さや怠惰さ、惰性、無気力を甘く見ているんじゃないのか。おれが弱さや怠惰、惰性、無気力の体現者としてそれを言う。おれも簡単に殺せるなら、殺し続けることができるかもしれない。それで飯が食えるなら、それが日常になるだろう。そういうタイプだ。

 

というわけで、人類がどういうものかというと、こういうおれのような弱い人間がいて、どこかにいる強い人間が、暴力や知識でさんざんに弱いものを打ちのめし、言うことを聞かせる、それだけのものである。戦争状態になくとも、金を稼ぐ力のないものは、ほとんど生きる資格を奪われて、苦しみの中で息をして、水を飲んで、死ぬしかない。そこに一切の幸福はない。この世は地獄である。

 

そこでおれはプラグマティックに提案するのである。人間が生まれるから不幸が生産されるのである。人間の生産をやめれば、不幸の絶対量が減る。反出生主義、これである。人間は理性によって滅んでもよい。そうでなければ強いものが弱いものを暴力で従わせ、殺し、弱いものがさらに弱いものを殺す、そのブルースが響き渡って止まることはない。