13年ぶりに出所した三上が見る新たな世界とは―。
私たち観客はテレビマン、津乃田の覗き見るかのような視点によって、主人公 三上の一挙一動を目の当たりにしていく。一度ぶち切れると手がつけられないトラブルメーカーである半面、他人の苦境を見過ごせない真っ直ぐな正義感の持ち主。はたして、私たちの身近にいてもおかしくない三上という男の本当の顔はどれなのか。そして、人間がまっとうに生きるとはどういうことか、社会のルールとは何なのか、私たちが生きる今の時代は“すばらしき世界”なのか。幾多の根源的なテーマを問いかけ、また、社会のレールを外れた三上と接する市井の人々の姿にも目を向けた本作は、決して特殊なケースを扱った作品ではない。殺人という大きな事件に関わらなくとも、日常の小さなきっかけで意図せず社会から排除されてしまうことは、誰の身にも起こりうる。そんな今の社会の問題点を鋭くえぐり、観客それぞれの胸に突きつけてくるのだ。
映画『すばらしき世界』をみた。横浜ブルク13、小スクリーンのシアター4。空席がやや目立った。意外な気がした。
ひょっとしたら、タイトルが弱いんじゃないのか、と思った。なにせ、おれもタイトルに『素晴らしき世界』と打って、公式サイト開いてみて『すばらしき世界』だったかと気づいた。『新しき世界』なんて映画もあったっけ。なんなら、原作小説のタイトルそのままに『身分帳』ではどうだろうか、などと思った。
けれど、映画を最後までみると、これは『すばらしき世界』というタイトル以外ないな、と思えるのである。
むろん、文字通りの「すばらしき」であるかどうかは別である。天国ではないけど、地獄でもない。そういう意味で、おれは娑婆世界を描き、えぐってみせた作品だと思った。
1 仏語。釈迦が衆生 (しゅじょう) を救い教化する、この世界。煩悩 (ぼんのう) や苦しみの多いこの世。現世。娑婆世界。
2 刑務所・兵営などにいる人たちが、外の自由な世界をさしていう語。「娑婆の空気」「娑婆に出る」
娑婆といえば、だいたいこういう意味だ。仏の世界から見れば煩悩と苦しみの世界だ。一方で、刑務所から見たら、自由な社会を指すし、ほとんど肯定的に使われるといっていい。ほとんど、というのは、『刑務所の中』で描かれていたように、出所前になって、逆に娑婆が怖くなってしまう受刑者もいるからだ。
それはともかく、苦しみの世界と自由な世界が同じ言葉で使われる。これは興味深い。とはいえ、たとえば戒律の厳しい宗教のことなどのことを考えてみる。修行僧の日常の所作の細かいところまできっちり定められている、たとえば曹洞宗でのお寺で修行する僧と、やはり日常の所作がきっちり定められている受刑者は、外から見る分には似ていないこともない。失礼なたとえかもしれないが。
この映画の主人公の役所広司は、自由な娑婆に生きるには真っ直ぐすぎる、直情的すぎる人間である。もっとも、刑務所の中にも馴染めず、刑務所の中でも何度も事件を起こしているということで(そのために膨大な量の「身分帳」が書かれたわけだが)、これはもう人間社会のすべてに適応できない人間ということになる。むろん、刑務所の中も人間の社会であり、受刑者の悩みごとのナンバーワンも「人間関係」というところに、おれはなぜか絶望したことがあるわけだが。
ともかく役所広司である。真っ直ぐといえばよい人間ということになるかもしれないが、それが暴力に出る。あるいは暴力でしか解決するすべを持たない。そこに不幸がある。結局のところ、居場所はヤクザの世界、そして刑務所ということなってしまう。
が、もう刑務所は懲り懲りということで娑婆に出る。これが最後だという覚悟で出てくる。満期出所。満期まで務める出所者というのは、仮釈放の対象にならなかったということだ。刑務所の中での生活、態度、行動などに問題があったということだ。そして、おれは社会の問題だと思うのだが、仮釈放者には保護観察などの制度がある一方で、満期出所者にはなにもない。
役所広司は幸いにも弁護士の橋爪功が身元引受人になってくれた。橋爪功がいなければどこか保護会などの施設に行くことになったのだろうか。そのあたりはわからない。ともかく、この映画では橋爪功が身元を引き受けてくれた。そして、役所には持病としてかなりの高血圧症があることから、生活保護の申請にまで同行してくれる。
が、ここで一つ、自由な社会とはなにかということ、自立して生きなければいけない人間とはなにかという問いが放たれる。役所広司は生活保護に対してかなりの抵抗感を示すのである。人間には働き場が欲しい。それはたとえ殺人で刑務所に入っていた人間も抱く。これはいろいろの矛盾を孕んだ娑婆について、映画が問いかけてくるジャブである。
ジャブということは、そのあとボディブローもフェイントもノックアウトもあるということだが……ここまででずいぶん長くなってしまった。語りすぎても良くない。なので、話をすっ飛ばす。
と、その前に書いておくべきなのだが、この映画はべつにシリアスな社会派バリバリというわけではなく、笑いどころも仕込まれている。観客席から笑い声でるようなシーンもある。そこんところは忘れるべきではない。あと、現役ヤクザの白竜(語弊のある書き方だな)も出てくるのだが、そのあたりも『ヤクザと憲法』以後のヤクザがきちんと描かれていたことを書き留めておく。あと、梶芽衣子に元女囚という設定はありませんので。
で、役所広司は娑婆世界で、弁護士、役人、スーパーの店長(町内会長)、安アパートの下の部屋の住人たち、そんな人間たちと接する。映画の流れの重要な要素としては、テレビ局の取材がつくというところがあって、そこで仲野太賀と長澤まさみ、とくに前者がキーマンにもなる(役者の人もよかった)。が、おれとしては、やはり日常の身の回りの人間たちの、それぞれの人間が持つ、いいところばかりじゃないけど、悪いところばかりでもない、というある意味当たり前のあり方、描かれ方に唸らされたわけだ。たとえば、役所広司が信頼する橋爪功も、孫の誕生日には孫を優先するシーンなど、微妙ではあるが、うまい、と思う。
そして、そういった人間模様が最後の二十分くらいにギュッと濃縮してガッと襲いかかってくる。なにが正しいのか、よくないのか、娑婆を生きるというのはどういうことか、正解のない問いをつきつけてくる。
おれのような人間にも、子供のころにいじめられっ子に同情していた結果、自分がいじめられるなんて経験もあったな、なんて思い出したりして……役所広司の生きにくさというものに前のめりに共感してしまうようなこともあるわけだ。
そうだ、この世は生きにくい。それでも生きていかねばならぬ。ある人間というものも、単純に割り切られたものではない。その中で、積み重なっていくストレス、娑婆の辛さ、不自由さがある。人間はある意味でそれぞれ自分の監獄に自分を閉じ込めて生きるしかない。そう割り切らねばならぬということもある。普段は意識しないことかもしれないが、あらためてその事実をえぐり出して、見せてくれる。ここは「すばらしき世界」なの? そこで生き死にするとはどういうことなの? それはネガティヴ・ケイパビリティをもって引き受けるしかない。直面する自分の人生の判断に、その都度答えを出していくしかない。ときには逃げることもあるだろう。考えは止まらない、まとまらない。西川美和監督、おそるべし。
というわけで、できたら『すばらしき世界』をみてくれないか。その感想を書いてほしいとも言わないし、書いてもらってもおれが読むとは限らない。それでも、多くの人にみてもらいたいと思うのだ。
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……「シャブ極道の役所広司が出所してきた」という考えが頭をよぎらなかったわけではない。
ヤクザ映画には『ヤクザと憲法』以前と以後がある……いや、そういうわけでもねえけど、リアルなヤクザ像を描こうとするならば、やはりこれは意識しなければいけないだろう。リアル志向でないならば、それはそれで別物なのでなんでもいいんだけど。
……日本には役所広司しか役者がいないのか? とは言わないけれど、たとえば『すばらしき世界』で役所広司以外に誰が演じられるだろうか? となると、あまり思い浮かばなかった。
『ゆれる』の中身は覚えていないけれど(最近気づいたのだが、おれは「物語を記憶する」という能力が非常に低い)、すばらしい作品だったことは覚えている。一度すばらしい作品を作った人は、一度もすばらしい作品を作ったことのない人に比べて、ふたたびすばらしい作品を作る可能性は高いとみていいだろう。