現代日本は人間社会の最先端なのか?

寄稿いたしました。

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シロクマ先生から恵贈いただいた新著、『人間はどこまで家畜か』の感想と、本書に記されていた未来予想の、自分なり考えを書きました。

 

 

 

さて、上の記事で書ききれなかった疑問を一つ。人類の文明社会って本当にこのまま進歩していくの?

 

たしかに、現代日本社会の穏やかさ、安全性は認めざるをえない。もちろん、そこかしこに貧困や暴力が潜んでいるものの、世界的に見てもトップクラスだろう。そこに適応できるのが「真・家畜人」だというが……。

 

さて、この現代日本のようなあり方が、人類全体の進歩の行き着く方向だといえるのかどうか。そこがよくわからない。世界は同じ時代を生きていない。だが、やがてはこの日本のような安全で、相互管理された社会、暴力が減り、医療によって生まれてくる人間を選別するような社会になっていくのかどうか。

 

「競走馬の能力の方向性は一定ではない」という亀谷敬正の言葉があるが、人間の能力の方向性も一定ではない。本書でも「時代が違えば精神科などに通っていなかっただろうな」という人の話が出てくる。たとえば戦争の真っ只中で優秀で尊敬されていた兵士が、敗戦後に収容所に入れられたらなんの役にも立たない人間になった、なんて話は『アーロン収容所』あたりで読める。

 

それと同じように、文化圏によってエートスというものは大いに違って、それが争いのもとでもあるし、逆に人類のおもしろいところでもあるのだろうが、果たして世界は同じ方向を向いているのだろうか。文化の能力の方向性は一定ではない。文化の能力?

 

ピンカーの『暴力の人類史』から引用されている表を見ていると、たしかに人類規模で戦争で死ぬ人間の割合は一方的に減りながら現代にいたっている。今現在行われている戦争や虐殺はあるが、たしかに傾向としてはそうだ。

 

ただ、そうだからといって、「文化的な自己家畜化」がすべての人類に起こり得る未来だろうか。そのあたりはわからない。本書でもそのあたりは書かれていない。書かれている「ざっくばらん」な未来予想も、あくまで日本のものだ。

 

そのあたり、人類が同じ方向を向かっていくのかどうか、興味深い。決して同一の文化、文明に統合されることはないだろうが、根っこのところで同じ価値観を共有して大同小異のようになるのか。それとも、いつまでも、技術の進歩を受け入れたり、受け入れなかったりしながら、まったく違う価値観のなかで生きていくのだろうか。

 

もちろん、日本がこのままの方向で行く、とも限らない。あまり考えにくいのは確かだが、国がひっくり返るような大変革が起きて、安全のかわりに自由と優先し、そのために暴力や怠惰を許容するようになったり、能力主義の社会が終わったりするかもしれない。

 

さらにいえば、日本が今の日本のままいつまでもいられるとは限らない。べつに戦争の危機を煽るわけではないが、ロシアや中国が近くにいてなにが起こるのかもわからない。百年単位の話だ。あるいはいずれ、今は名前もない国に占領されてしまう可能性がないわけでもない。

 

まあ、日本の国体がどうなるかはちょっと話が違うか。でも、今の日本が生物学的自己家畜化の行き着いたところと言えるのかどうか。人間社会の最先端なのか? たまたま現れた人間社会のある一種ではないのか。そういうところもあると思う。傾向として戦争は減っていくだろう。千年単位とかで。

 

でも、どうなんだろう。能力主義≒資本主義はどこまで続くのか。続くとしたら、個々人の選択としての優生主義、あるいは能力向上のためのドーピング(エンハンスメント)を進めていくのだろうか。そんなものに先はなさそうにも思えるし、おれは人類が滅ぶ方に賭けているのだが。

 

でもまあなんだろうな、安楽なほうへ行くのがいいな。もう、暴力も能力も争いはなしだ。遺伝子操作でやさしい人間だけ作って、飲水の中に精神安定剤入れよう。空気の中にリラックスできる草の煙を混ぜよう。そういう方向で行くべきだ。いや、それでも人類は滅ぶな。やっぱりおれは人類が滅ぶ方にこないだの小倉のメーンレースのグランレイに賭けたのと同じ額だけ賭けることにするわ。

 

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goldhead.hatenablog.com

『人間はどこまで家畜か?』でも取り上げられていた本。国家が強制するそれではない優生思想。

 

リベラル優生主義と正義

 

goldhead.hatenablog.com

昨日は北一輝のことを考えていたので、今日も北一輝を思い浮かべた。進化論、人類の進化、社会文化との融合……先見性があるといっていい、『国体論及び純正社会主義」を読んで人類の先行きを想像してみてもいいかもしれない。