あらゆる集団は内部の人間をやくざ者にする

 

 

 

吉本隆明の『親鸞の言葉』を読んだ。『最後の親鸞』とか『信の構造』とかは読んだ。

この文庫本には鮎川信夫との対談が載っていた。その中で吉本はこんなことを述べていた。

革命家でもマルクス主義者でもいいし、そうじゃなくてあらゆる政治的な権力といってもいいし、また集団はすでに権力と考えればあらゆる集団でもいいですが、あらゆる集団あるいは権力というものは、その理念がなにを目指しているか、なんであるかにかかわらず内部のものをみんなやくざ者にする作用があるとマルクスは言っています。やくざ者にしちゃうってことの意味は、マルクス主義であろうとファシズムであろうと、あるいは資本主義の株式会社の組織であろうと、ぼくは同じような気がします

 

あらゆる集団というものを否定する。内部の人間をみんな「やくざ者」にしてしまうという。

 

おれは集団というものが大きらいで生きてきた人間なので、いいことを言うな、と思う。たとえばおれは資本主義の株式会社に勤めてはいるが、家内制手工業というか、零細すぎてほぼ血縁の家族のようなものである。

 

家族も「集団」だろうか。それはちょっと違うかもしれない。

 

まあいい、こういう吉本隆明のことばを見ると、おれは田村隆一の詩の一節を思い出す。「巨大なものはすべて悪である」。「きみに/悪が想像できるなら善なる心の持主だ/悪には悪を想像する力がない/悪は巨大な「数」にすぎない」

 

 

このあたりの、集団への不信のようなものは、戦中派ならではのものかもしれない。吉本隆明は軍国少年だったというが、大日本帝国も気に入らなくなったし、その後にできたなにかもいやだっただろうと想像する。「気に入らない」とか「いやだ」とか、そんなものは勝手にこちらが想像していることばだけれど。

 

しかし、親鸞の本でなぜマルクスの話になるのか。吉本隆明には『カール・マルクス』というそのものずばりの著書もある。鮎川は吉本が親鸞もマルクスも、彼らの影響を受けてできた集団から救い出そうとしているのではないか、というようなことを言ったのだ。

 

 

あらゆる集団は内部の人間をやくざ者にする。マルクスがどんな表現でそう述べたのかはしらないが、いいことを言う。

 

右も左も上も下もない。やくざ者をやりきれる人間はいいが、それがいやな人間は集団を否定しよう。

 

栗原康『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』を読む - 関内関外日記

 

 えっ、秩序をはみだすのは、犯罪だって? みんなにきらわれてしまうって? 上等だよ、上等だよ、ひらきなおるわけじゃねえが。現にあるものをブチこわせ。主人でもない、奴隷でもない、民衆の生をつかみとれ。新天地にむかってあるきだせ。それはとても孤独なことなのかもしれない。おいら、ゴロツキ、はぐれもの。でも、ひとたびその一歩をあゆみだせば、かならずあのメロディがきおけてくる。もうなんにもこわくない。過去の民衆たちがおどりだす。おいらもいっしょにおどりだす。つられて、だれかもおどりだす。ユートピアだ。コミュニズムとは絶対的孤独である。それは現にある秩序をはみだしていこうとすることだ。かぎりなくはみだしていこうとすることだ。あらゆる相互扶助は犯罪である。アナーキーをまきちらせ。コミュニズムを生きてゆきたい。

 

コミュニズムとは絶対的孤独である。栗原康はそんなことを言った。どういうことだろうか? 考えていきたい。